「それで、一体……」
科学室に着くなり、先輩はそう言いかけたが、
「……いえ。まずは挨拶をしておきましょうか。彼とは初対面の筈ですし」
と哉井に向き直った。
「初めまして、元科学部部長、3年の
深々と頭を下げる先輩につられ、哉井も頭を下げる。
「え、えと…か、哉井 李一です。よろしく……」
「そんなに緊張しなくてもいいですよ」
くすくすと笑われ、少しばつが悪そうな顔をしていたが、俺と目が合うと、何故か無理矢理に歪めて見せた。
……笑おうとしているのだろうが、なんとも面白い顔になっている。勿論、本人には俺を笑わせようという気はないのだろうが。
必死に表情に出すまいとしながら、手近なイスに腰を下ろす。それをきっかけに、他の二人もイスに座った。
「それで……何があったんです? 場所を移さなければ話しづらいようなことなのでしょう?」
今までとは打って変わって、真剣な表情になる先輩。
途端に空気が冷たく、張りつめたものに変質する。
そんな空気に呑まれそうになるのを堪えて、俺は出来るだけ普段通りに用件を告げた。
「単刀直入に訊きますが、以前先輩が言っていた都市伝説以外にも、都市伝説はあると思いますか」
「……それは、この街の、ですか?」
「…はい」
「………………」
真剣な表情を崩さぬまま、黙り込む。
考え込んでいるようにも、言うべきか迷っているようにも見える沈黙。
あまりにもそれが長く感じられて、もどかしくて、声をかけようとしたとき。
静かに、先輩は息を吐いた。
「……ありますよ」
「…!」
「ただ、それを教えるならば、こちらからひとつ条件を出させてもらいます」
「……『give-and-take』ですか」
そういうことです、と先輩は笑う。
「この話を知っている人は、この街でもほんの一握りの人間だけですからね。いくら後輩とはいっても、そう簡単に情報は流せませんよ」
それだけ貴重な情報だということか。
しかし……
「なに、そんなに大した条件ではありませんよ。ただ……桐褄くんがそういう話を聞きたがるなんて、何か、都市伝説に関係のあることに巻き込まれたのでしょう? それを話してくれればいいんですよ」
「……そういうことか」
自分は都市伝説のさらなる情報を得て、そして相手には自分の持っている情報を与える。なるほど巧いやり方だ。
「自分にプラスになると、確信している訳ですね」
「俺はただ、桐褄くんがどういうルートでその仮説に辿り着いたのか、それが知りたいだけですよ」
くすり、と先輩は笑うが、俺は笑えなかった。
あの、気分の悪くなる話を、再びしなくてはならないのかと思うと。
はぁ、と小さく息をつく。
「……この事は、他言無用ですよ」
「ええ、もちろんです」
俺はゆっくりと、かいつまんで話し始めた。
「黒衣の少女」との出会い。
殺された幹藤。
「鏡中の移動者」との遭遇。
そして、「神社の影使い」のこと。
さすがに、都市伝説だと言われたことは伏せたが、他はほぼありのままに話した。
話し終えると、先輩は目を輝かせながらこう言った。
「素晴らしい……! 桐褄くん、貴方ほど都市伝説に関わった人を俺は知りませんよ! 一体どうやったらそんなに」
「興奮しないでください、先輩」
じりじりと身を乗り出していた先輩は、はっと我に返って、ひとつ咳払いをし、失礼しました、と詫びた。
「……では、俺の考えを言わせてもらいますね。
まず、その……幹藤くん、でしたか。彼が、殺された筈なのに生きていた、というのは恐らく、『黒衣の少女』の能力なのではないかと思います」
「『黒衣の少女』……以前は、詳しいことはわかっていないと言っていませんでしたか」
そう言うと、先輩は口許だけで笑って、それがヒントだったんですよ、と言った。
「……どういう事ですか」
「詳しいことはわかっていない。何故か。それは、都市伝説に遭った人たちの話が、まるでバラバラだったからです。ある人は、血塗られた教室を見、またある人は幸せな世界の縮図を見たと言っています。何故これほどまでにかけ離れた内容になったのか、あの時の俺は、そこまでは考えが及びませんでした。でも……」
今なら、その意味がわかるような気がします。まっすぐに俺の目を見据えて、先輩はそう言った。
「もっとも、まだ仮説の段階ですし、実際に会ってみないと何とも言えませんがね。時に桐褄くん。貴方は『黒衣の少女』が他の都市伝説と異なっているのに気付いていますか?」
勿論だ。俺は頷いてそう伝える。
先輩もそれに応えるように、ひとつ頷いて続けた。
「『黒衣の少女』の他の都市伝説との違いのひとつに、その名前があります。都市伝説は通常、その名を聞くだけで、ある程度性質がわかりますが、これは違います。外見的な特徴しか知ることは出来ません。何故か」
「他に伝えられるほどの内容が、なかったから」
頷く先輩。
「彼女と出会った後、不思議なことが起こる。けれど、その内容は皆バラバラ。だからこそ、彼女は『黒衣の少女』という名前でしか伝えられなかったんです。
さて、先程の話の続きですが、何故バラバラなのか。一番手っとり早く、論理的なのが、『黒衣の少女』の能力が幻覚系の、それも、ただ映像を見せるだけではなく、五感で感じることも出来る幻覚だという可能性です」
教室に満ちた死の匂い。
肉塊を突く音。
頬に触れた、ぬめりを帯びた感触。
それらが全て、幻覚だというのか。
「待ってください。それなら……俺が聴いた歌も幻覚の一部という事ですよね」
「……そうなりますね」
「何故、何のためにそんな歌を聴かせる必要があったんですか。それに初めて零に会ったとき、俺は幻覚なんて見ていない!」
「歌を聴いたのでしょう? それも彼女の能力だったのでは」
「だから何のために!」
「俺が知る筈ないでしょう。少し落ち着いてください、桐褄くん。貴方らしくないですよ」
言われて、言葉に詰まる。
俺らしくない。確かにそうだ。
だが、ただ歌を聴かせるために能力を使ったというのは、違う気がしてならなくて。
頭に、血が上っていた。
「……すみませんでした」
「いえ……俺も、桐褄くんが言いたいことはわかりますから。それに、あくまでこれは俺の仮説ですし」
そう言って先輩は笑って見せたが、俺はそれを苦い思いで見ることしか出来なかった。
やがて先輩は、さて、と呟いて机に肘をつき、顔の前で指を組んだ。
「そろそろ本題に入りましょうか」