忘れもしない、中学の卒業式の日のことだ。
僕は彼女に告白した。
『つ、付き合ってください!』
『ごめんなさい。無理です』
即答だった。
いっそ清々しいほどに。
そして彼女は顔色ひとつ変えずに、
『こんな私を好きになんて、ならないで』
静かに自分を否定した。
あれから一年と半年の年月が流れ、僕たちは先輩と呼ばれる立場になった。
…それはそれでいいんだけれども。
「水島くん、聞いてますか?」
「あー…、まあ、聞いてるよ」
なんで同じクラスで、しかも隣の席になっちゃったりするんだろうなぁ…
神様がいるとしたら、この状況を絶対に楽しんでいるに違いない。
こっちは気まずい思いをしているというのに、彼女――神津さんは、何事もなかったかのように話しかけてくるし。
なんだろう。新手のイジメなのか。そうなのか。
「……たいと思うんですけど…やっぱり、聞いてないですよね」
「え? い、いや、聞いてる聞いてる」
ほんとは聞いてなかったけど。
慌ててパタパタと手を振る僕を疑わしそうに見てから、神津さんは「じゃあ、そういうことでお願いしますね」と言って僕から視線をそらし、机に向き直る。
このとき僕がどれほど焦り、脳をフル回転させたことか。
さて、神津さんは僕に何をお願いしたのだろう。
最初は確か、静かな場所を知らないか、という話だったはずだ。
『花見をするから席を取っておいて』、とか。
……まさか。今は6月だぞ。桜なんかとっくに散ってる。
じゃあなんだ。
いったい何を頼まれたんだ…
「か、神津さん? さっきの話なんだけど…」
「…やっぱり聞いてなかったんですね」
「あ、いや、そのー……あー……」
「聞いてないのならそう言ってくださいよ」
はぁ、とため息をつかれてしまった。
「ですから、先程水島くんに教えていただいた湖に行ってみたいのですが、場所がわからないので案内してもらいたいと思うんですけど、と言ったんです」
わかりましたか? と確かめるように小首をかしげる神津さん。
「ああ、はい……」
そうか、そういうことだったのか。
………って。
「えぇぇぇ?!」
「反応遅すぎですよ、水島くん…」
「いや、だって…ええぇ?」
「私、実は地図読めないんです。ということで、よろしくお願いしますね」
にこりともせず、というか表情を少しも変えずに、淡々と神津さんは言ってから机に向き直る。
そのまま本を読み出す神津さんに、僕は何も言えなくなってしまう。
……気まずいのになぁ…
放課後。
一度家に帰るのかと思いきや、そのまま直行するらしかった。
「家の人とか、大丈夫なのか?」
「そこまで過保護じゃないですからね」
相変わらずの無表情で、それだけ言って黙り込んでしまう。
気まずい(神津さんは気まずくないかもしれないけど)沈黙の中、商店街を通り過ぎ、住宅地を通り過ぎ、少し寂しい道に出た。
目の前には木々が生い茂る林が広がっている。
この林の中に湖があるわけだけど……
「神津さん、僕もすっかり忘れてたんだけど、ここ…結構虫とか多いから、スカートだと……」
言いながら後ろを振り返ると、スカートの下にジャージのズボンを穿いた神津さんの姿があった。
…素早い。けど、格好的にはどうなんだろうなぁ……
「どうかしましたか?」
「…いや、やっぱりなんでもない」
いいや、考えないことにしよう。
そしてまた静寂が帰ってくる。
「…そ、そういえば神津さんは、ドラマとか見るの?」
「いえ、テレビは見ないので」
「そ、そうなんだ……」
「はい。ラジオは聴きますけど」
「…へぇ……」
「……………」
「……………」
もともと、神津さんはあまりしゃべらない方だから、僕が黙れば必然的に静かになる。
その沈黙に耐えられなくて、僕は必死で話題を探すことになる。
しかしここへきて話題が尽きてきた。
…神津さんもたまには相槌以外の言葉を発してくれればいいのに。
場の空気に押しつぶされそうになりながら歩いていると、
「わぁ………!」
目的地の湖が見えてきた。
それまで殆ど変化がなかった神津さんの表情が、みるみる柔らかいものになっていく。
「水島くん! ここですか?」
興奮しているらしく、声が上擦っている。
「綺麗ですねぇ……」
「そうだな」
朱の夕日が水面を橙色に染め上げ、時折吹いてくる風がその水面を揺らし、その度にきらきらと反射する。
「朱の水鏡」
ぽつりと、神津さんが呟く。
オレンジの陽光が彼女の頬を照らす。
眩しさに細められた瞳は、まっすぐに湖に向いている。
そこに僕が写るはずもなくて、それが少し哀しくて、僕は彼女から目をそらした。
「水島くんは、『金の斧』というイソップ寓話をご存知ですか?」
「それって、きこりが湖に斧を落とすあれ?」
唐突に、何の脈絡もなく語り始めた神津さん。
「はい。あるきこりが、木を切っているときに手を滑らせて湖に斧を落としてしまいます。
困ってしまったきこりの前に、神様が現れて『あなたが落としたのは金の斧か銀の斧か』と問いますが、きこりはどちらも違うと言い、その正直さに感心した神様は、使っていた斧も含めて3つの斧をあげました。
後日、その話を聞いた他のきこりが同じことをし、金の斧が自分のものだと答えてしまったばかりに斧を失った、という話です」
「それが、どうかした?」
「嘘をついてでも手に入れたかった金の斧は手に入らず、もともと持っていた斧までなくしてしまった。こんな愚かな話はないと、今までそう思っていたんです。でも……」
細めていた瞳をゆっくりと閉じて、少しだけ俯いた。
「私も、彼と同じ愚か者です」
「え……」
「変化を恐れたがために、あの時私はあなたに『無理だ』と言いました。結果は、こんなぎこちない関係になるというものでした。
もともとあった筈の友人関係すら、失ってしまったんです」
どきり、と心臓の音がやけに大きく聞こえた。
「嘘をついた、罰ですね」
神津さんを見ると、少しだけ、頬が赤い。
ごくり、と息を呑む。
指先に通う血のどくどくという感覚が、伝わってくる。
「私は、水島くんと――」
少し潤んだ瞳に、艶やかな唇。
早鐘のような心音がうるさい。
治まれ、治まれ――!
「ずっと、友達でいたかったのに…」
「……え?」
呆然とする僕を置き去りにして、彼女は話し続ける。
「無理だ、なんて嘘です。水島くんを嫌いだと思ったことなんて、一度だってありません…!」
………嗚呼。
やっぱり新手の苛めだったんじゃないか。
彼女が言おうとしていることに気づいて、僕は脱力してその場にしゃがみ込んだ。
…まったく、性質の悪い神様だ。
「だ、大丈夫ですか?」
少し不安そうに声をかける神津さん。
それには答えずに、こっそりと小さなため息をつく。
…ようやくわかった。
あの『無理』という言葉が、どういう意味だったのか。
僕はてっきり、『付き合うことが』無理なのだと捉えていた。しかし、そうではなかった。
『僕自身が』無理、つまり「嫌い」だと言ってしまった。
もしくは、そう捉えられてもおかしくないと思った。
だからそれは嘘なのだと、事実ではないのだと彼女は言おうとしていたのだ。
そのせいで気まずくなってしまったと、そう考えているのだ。
僕と彼女の見方が違っていた。ただそれだけの話。
けれどその差は、あまりにも大きい。
「…本当に、ごめんなさい。私……」
僕が何に落ち込んでいるのかさえ、彼女は気づいていないのだろう。
勝手に期待して、勝手に落ち込んでいるだけなのだから。
しかし、ここまで謝られてしまったら今までのように友達として、それこそ、告白したなんて事実はなかったことにしなければならないのだろう。
そうでなければ――きっと、神津さんに気づかれてしまう。
彼女は僕よりもずっと、頭のいい人だから。
それだけは、僕のこのちっぽけな
「……神津さん、そんなこと気にしてたの?」
「え?」
僕は努めて明るく振舞って言った。
まったく気にしていないとでも言うかのように。
すべてを元通りに、リセットしてしまうために。
「大丈夫、わかってるよ。もし本当に僕が嫌いなら、僕に話しかけたりもしないだろう?」
「ほ、本当に、勘違いしてません?」
「本当だって。だからさ、そんな気にしなくていいよ」
ああ、神津さんの表情なんて、見なければよかった。
そうすれば、思い上がることもなかっただろう。
「僕たち、友達だろ?」
だからせめて、この泣きだしそうな感情が治まるまでは。
映像のない、音声だけの世界にいさせてください。