――かつん。
夜中に彼女は、そんな音を耳にした。
「何の音……?」
キーボードを叩いていた手を止め、音のする方へと目を向ける。
部屋に変わった様子はなく、外からか、と彼女はデスクトップに向き直る。
――かつん。
また、音がした。
但し今度ははっきりと、近くから聴こえた。
「……なに?」
部屋の中を見回してみる。
しかし、変わったところは見られなかった。
少し眉をひそめて、彼女はパソコンの画面を見る。
立ち上げていたメーラーに、「新着メール 1件」と表示されていた。
「……あれ」
いつの間に、と思い、メールを開く。知らないアドレスからだった。
かち。
「ひっ……!」
開いた瞬間、彼女は小さく悲鳴をあげた。
『お前を殺すお前を殺すお前を殺すお前を殺すお前を殺すお前を殺すお前を殺すお前を殺す……』
何度も何度も、それだけが繰り返されたメール。
強烈な悪意の塊だった。
「なに……これ……」
悪戯だと言うには、悪質なものだった。
それでも彼女は悪戯だと言い聞かせ、その日は眠りに就いた。
翌朝、彼女はいつものように、メーラーを立ち上げた。
「新着メール 6件」という表示を見て、彼女は恐る恐るメールを開いていく。
6件のうちの2件はメールマガジンだったが。
残りの4件は全て、同じアドレス。
不意に昨日届いた、あのメールの内容が思い出された。
何度も繰り返される、呪詛の言葉。
まさか、という考えが、強くなる。
ゆっくりと、深呼吸する。
大丈夫。あれはただの悪戯。
怯える必要なんて、どこにもない。
そう自分に言い聞かせ、残りのメールを開く。
――かち。
表示されたのは、友人からのメールだった。
はぁ、と大きく息をつく。
全身の力が抜けて、彼女は座り込んだ。
それから数日が経った。
しかし、その間一度もあのメールは届かなかった。
やっぱり、悪戯だったんだ。
そう思い込んでいた。
プルルルル……
固定電話が鳴り響いた。
小走りで電話に向かい、受話器を取る。
かちゃ。
「はい、もしもし」
彼女の声に、答えはない。
「? もしもし……?」
不審に思いながら、繰り返す。
だが、声はしなかった。
「もしもし、どちら様ですか?」
返答はない。
悪戯電話かと、受話器を戻そうとしたときだった。
――ザザッ。
ノイズのような、耳障りな音が聴こえてきた。
そして。
『――お前を殺すお前を殺すお前を殺すお前を殺すお前を殺すお前を殺すお前を殺す』
無機質な声が、呪詛の言葉を吐く。
『お前を殺すお前を殺すお前を殺すお前を殺すお前を殺すお前を殺すお前を殺す』
何度も何度も。
『お前を殺すお前を殺すお前を殺すお前を殺すお前を殺すお前を殺すお前を殺す』
あのメールのように。
「嫌っ……!」
がちゃんっ。
はぁ、はぁ、という荒い呼吸音だけが、静かな部屋に響き渡った。
それから、彼女は家に帰るのが怖くなった。
電話が鳴る度に、
メールが届く度に、
彼女は酷く怯えた。
そんなとき、彼女の友人に、どこかへ遊びに行かないかと誘われた。
あのことを忘れられるかもしれないと、彼女は二つ返事で行くことに決めた。
けれど、忘れられなかった。
植え付けられた恐怖は深く、ふとした瞬間にも蘇った。
しかし、それを友人に相談することもできなかった。
気分が晴れぬまま、彼女はのろのろと家路についた。
「…………」
確かに、楽しかったのに。
今では恐怖の方が、圧倒的に勝っている。
「…………」
帰りたく、ない。
そう思っていた。
――かつん。
いつだったか、聴いた音。
――かつん。
今、その音が何の音なのか、思い出した。
――かつん。
硬い、靴の音。
――かつん。
誰かが、いる。
さぁっ、と血の気が引いていく。
あのメールにはなんと書いてあった?
あの電話の主は、なんと言っていた?
『お前を殺す』
それなら。
最も危ないのは、今だ。
かつ、かつ。
なんて呑気だったのか。
かつかつかつかつかつかつ。
来る……!
彼女は、ばっ、と振り返り、足音の主を見た。
黒ずくめの男がいた。
彼女の方へと走ってくる男が。
その男が、鋭い眼光で彼女を睨みつけながら、手に持ったナイフを振り上げる。
「ひっ……!」
彼女は走った。
走っても追いつかれるとは、わかっていた。
それでも彼女は走った。
直線では勝てない。それなら、と彼女は路地裏へ入る。
虚を衝かれたのか、男との距離が少しだけ広がる。
しかし、それも一瞬のこと。
「っ……!」
ざっ、と何かが腕を掠めた。
痛みよりも先に、熱い感覚が彼女を襲った。
ぽたぽたと、紅い雫が滴り落ちる。
その雫を見た瞬間、自身の血液だと認識した瞬間、彼女の中で。
何かが、変わった。
「…………そうだよ、なんで気が付かなかったんだろ……」
走るのをやめ、男の方へ向き直る。
「――殺られる前に、殺っちゃえばいいんだ」
直後、彼女の身体をナイフが突き刺した。
彼女の脇腹が、紅く染まる。
「この距離なら、外さないよね」
片方の手で男の手を握り、もう一方でポケットから護身用に持っていたナイフを取り出す。
「死ぬのは私じゃない。あんただ」
どすっ、という鈍い音。
男の目は見開かれ、そのまま二度と閉じることはなかった。
心臓を、一突き。
それだけで、男は死んだ。
「…………」
黙って、彼女はナイフを抜く。
ずるり、と男の身体はアスファルトの上に転がった。
「………………ふ」
彼女の身体が、震える。
「……はは、あははは」
次第に、彼女の目に狂気が宿っていく。
「あはははははははははははははははははははははは!!
死んだ? 死んじゃった? 死んじゃったよね! だって心臓刺されたんだもんね!」
嘲笑し、彼女は男を踏み付けた。
ハイヒールの
ぐちゃぐちゃという厭な音が、静かな路地裏に響く。
彼女は自分が負傷しているということも忘れて、醜くなった男の死体を踏み続けた。
彼女が怪我に気付いた時には、男の服は既に赤黒い色に変わっていた。
その後、彼女は病院で治療を受けた後、殺人の容疑で警察へと連行された。
しかし、彼女の部屋から、彼女を脅迫する内容のメールが見つかり、正当防衛が認められたこと、
そして彼女が当時、心神喪失状態にあった可能性があるということから、彼女は解放された。
そして彼女は今も、紅い血の滴るナイフを握りしめている。