「や、やめて!」
「来ないで」
叫ぶように言った言葉は、秋飛ちゃんに一蹴された。
「来たら、この人の首を切る」
「た、たすけ……」
車椅子に座った老人が、こちらを見て小さく呟いた。
皺だらけの顔を、さらに皺くちゃにして。
手をがたがたと震わせて。
今にも泣き出しそうな声で、私たちに助けを求めた。
けれど、近づけない。
そんな私たちを見て、秋飛ちゃんは少しだけ口の端を持ち上げて笑った。
「そう。あなたたちを巻き込むつもりはない。だから」
老人の方へ向き直り、ナイフを喉元に当てる。
ひっ、という小さな悲鳴が、老人の口から漏れた。
「呉羽 時重を殺すまで、そこで見ていて」
いびつに、唇が歪んだ。
その表情を見て、不意にあることが頭を掠めた。
銃声がしたのに、何故秋飛ちゃんが持っているものは、ナイフなのか?
「久遠寺、お前っ!」
「待って!」
慌てて二人に制止をかける。
吾九汰くんと、
「いるのはわかってます。撃たないでください」
内開きの扉の裏にいる人物――白雷に。
「…ばれてましたか」
吾九汰くんに照準を合わせたまま、白雷は扉の裏から出てきた。
一歩でも足を踏み出していたら、撃たれていたかもしれない。
それを考えると……恐ろしくなる。
「それにしても、よくお気づきになりましたね。雪野さんの制止がなければ今頃」
拳銃を下ろし、白雷は、
「あなた、命を落としてましたよ」
そう不敵に笑った。
「…ここに来る少し前に、銃声が聴こえたんです」
「ですが、久遠寺さんが隠し持っている可能性もあったのでは?」
「……気になってたんです。秋飛ちゃんのこと」
秋飛ちゃんを見ると、目線だけはこちらに向いているが、依然としてナイフは老人――呉羽さんに向けられている。
「前に秋飛ちゃんが私の部屋に来たとき、フォークを喉に突きつけられたんです。今も秋飛ちゃんは食事用のナイフを持っている。ここに来てから一度も食事をとっていないのに、どうしてそんなものを持っているんだろうって、不思議に思ってたんですよ」
だけど、これなら辻褄を合わせることができる。
「この館の使用人と手を組んだと考えれば、その疑問は解消されます。食器を持ち出すのも、使用人なら怪しまれませんし、他の使用人に見つかってもリスクは低い」
「久遠寺さんが持ち込んだという可能性は?」
「それなら小型の折りたたみ式ナイフにすると思います。それに、私たちはあくまで、『商品の交換』をしてもらうために来たんですから、そんなものを持ち込む必要もないですよ。…それで、思ったんです。現地で武器を調達している人が、銃を持ってるのかって」
仮に銃を持っていたならば、わざわざ使用人と手を組んでフォークやナイフを借りる必要はない。
ただ、標的に向かって引き金を引けばいいのだから。
だから―――
「私が未だに、呉羽時重を殺していない理由」
「え?」
唐突に、秋飛ちゃんが口を開いた。
「殺される前に殺せ、という考えなら、殺していてもおかしくはない。それなのに殺していない、その理由の説明」
「そ、それは……み、みつけたら、殺されないって書いてあったわけだし……」
「それならそもそもナイフを突きつけはしない」
「う……」
それもそうだ。
答えに詰まっていると、秋飛ちゃんはいつもと変わらない口調で言った。
「この問いに対する答えは極めて簡単。『久遠寺秋飛は呉羽時重とは面識があり、殺意も持っていたが、殺す前に話をしたかった』」
「は…話?」
そう、と言って頷く秋飛ちゃん。
殺意は、こもっていないように見える。
「そして話をする前に、あなたたちが来た。それだけのこと」
…それなら、筋は通る…かな。
「ちょっと待ってくれ。ひとつ質問したいんだけど」
「何」
小さく挙手して、吾九汰くんが言う。
「白雷、さんは……呉羽さんに恨みでもあったのか? 普通、使用人は主人を守るものなんじゃねぇの?」
「そ、そうだ! 白雷、お前、恩人に対して、何故こんな仕打ちをっ!」
「呉羽様」
喚く呉羽さんを、白雷は冷めた瞳で見つめていた。
「
「あの男の名を出すな白雷ッ!」
「くおんじ……?」
ちらりと秋飛ちゃんを見ると、普段と変わらない表情で、二人を見ていた。
秋飛ちゃんの血縁かと思ったんだけど……
「あの、久遠寺 弘さんって…どなたで」
「私から、妻を、妻を奪った男だッ!」
興奮した様子の呉羽さんが、かぶせるように言った。
「そう、すべてはあの男が悪いのだ。あの男さえいなければ……!」
秋飛ちゃんが持っていたナイフが、すっと下ろされる。
それにすら気付かずに、呉羽さんは話し続けた。
「妻の千鶴と結婚して、私は幸せな日々を過ごしておった。妻といるだけで楽しかった。それなのに、あの男は私から妻を奪い、挙げ句妻に妊娠させたのだ!
私は不倫に気付き、
子を産んだら産んだで『うちで育てたい』と言う。誰があんな男の子供なんか見たいと思うのだ。捨ててしまえと言った。随分長いこと抵抗したがな、結局諦めて『孤児院の前に置いてきた』と言ってきた。あれは傑作だった。最初から言うことを聞けばよかったものを。
これでようやく以前のような生活が送れると思った。だがまたあの男だ。あいつは私の妻を車で轢き殺した! あいつはいつも私の人生を滅茶苦茶にする! あんな男は、報いを受けて当然なのだ! そう思うだろう、久遠寺 秋飛!」
長々と語った後、呉羽さんは秋飛ちゃんを睨み付けた。
当の秋飛ちゃんは涼しい顔で、冷静に呉羽さんを見下ろしている。
「いいことを教えてやろう、雪野 美優。こいつはな、久遠寺グループの会長、久遠寺 弘の愛娘なのだよ。愛娘の命を奪われたら、あいつはどんな顔をするだろうなぁ……?」
下卑た笑みを浮かべ、秋飛ちゃんを見る。
…なんなんだ、この人は。
結局自分のことしか考えてない。
自分の妻が殺されても、人生が滅茶苦茶にされたの一言で片付けてしまうの?
不倫相手の子供だからと言って、捨ててしまえって?
新しい命だって言った奥さんの、千鶴さんの気持ちも、何もわかってない。
それどころか、偽善者扱いまでして。
しかも今回は自分の復讐のためだけに、自分の使用人に、無関係な人まで殺させて。
…一体、なんなの? この人は。
言いようもない怒りがこみ上げてきた。
しかし、それよりも早く、
「ぎゃあああああああああああああああああああああああっ!」
呉羽 時重の悲鳴が、部屋にあふれた。
秋飛ちゃんのナイフが、呉羽 時重の足に突き立てられていた。
「あなたの押し付けがましい不幸話なんて、誰も聞いてない。聞きたくもない。そんなことだからあなたは、何も気付けない」
「ぅあ、あああ、あ………な、にを……」
肩で息をし、溢れる血を止めようとしているのか、ナイフの周りを手で押さえながら問う。
「あなたにはあなたの主観、物語がある。けれどそれと同時に、私たちにも私たちの物語がある」
「だ、だから……ぅ…なに、を……」
「まだ、お判りにならないのですか? 呉羽様」
「な………? はく、らい…?」
パン。
「ぐぁ……っ!!」
からん、と刺さっていたナイフが床に落ちた。
白雷の撃った銃弾がナイフに当たったのだ。
…少しえぐれたみたいだけど、腕は確かなようだ。
「くっ……! 白雷、き…さま……!」
「抜いた方が良いかと思いまして。それより呉羽さん、いい加減、気付いてくれませんか?」
口調が、少しだけ変わった。
それと同時に、白雷がにっこりと笑った。
「先程あなたが語ってくださった、不倫相手の子供。それ、僕と、あなたの本当の執事のことなんですよ?」
「なっ……!?」
「えっ……?」
不倫相手の子供?
あなたの、本当の執事?
「いつになったら気付いてくれるのかと思っていたんですが、結局最後まで気付いてくれませんでしたね」
「お……おまえ、はくらいじゃ、ない、のか……?」
「言われても気付かないんですか? これじゃあ兄さんが余りに可哀想だ」
ちょっと待って、確かに、前に白雷さんに話聞いたとき、似たような話は聞いたような……
「まあ、いいですよ。僕も呉羽さんと同じように、僕の物語を語らせてもらいますから」
僕と兄と、久遠寺さんの物語をね、と目の前の燕尾服の男は言った。