誕生日



    「……やっぱり気が向かねぇなぁ」
     ぼりぼりと頭を掻きながら、ヨーコは小さくため息をついた。
     任務は至って簡単。間違ってこの家に届けられた『黒猫のぬいぐるみ』を回収してくるだけ。
     目の前の家はごくごく普通の家で、特に防犯がされているようには見えない。
     組織に加入したてのヨーコに相応しい、誰にでも出来るような簡単な任務だった。
     それはつまり、それだけヨーコが期待されていないということでもある。
     『能力』を買われて組織に入ったヨーコだったが、組織にいるのは全員が能力者。
     自分よりも強力な能力者に囲まれて、ヨーコはすっかり自信喪失してしまっていた。
    「期待されてないのは、別にいーんだけどな」
     回収するのはぬいぐるみだけれど、ぬいぐるみそのものが目的というわけでない。
     大切なのは中に入っているもの。
     それが何なのかヨーコは知らされていないし、知りたいとも思わない。
     中身など知ってしまえば、きっと任務に疑問を持ってしまうに決まっているから。
     しかし、中を見るなと何度も脅しに近い念を押されたことを考えても、相当な物に違いない。
     それを思うと更に気が重くなる。
     モノが盗品の宝石程度ならともかく、新型のクスリだったりしたら、沢山の人を不幸にする手伝いをすることになる。
     そもそも、ヨーコは望んで組織に入ったわけではない。
     能力に溺れているうちに、こんな生き方しか出来なくなっていたのだ。
    「ま、いやーな仕事はさっさと終わらせるに限るか」
     悩んでいても仕方がない。
     自分がやらなければ他の誰かが来るだけだ。
     そう思い切ると、ヨーコは家のドアを開いた。

    「……さて、ぬいぐるみは何処にあんだろうな」
     荷物は今朝届いたばかりのはずだ。運がよければ玄関先におきっぱなし、なんてこともあるかもしれない。
    「ま、そんな都合よくはいかねぇか」
     期待していたわけではないので失望はないが、そうすると何処を探すべきなのだろう。
     さほど小さいものではないので、置ける場所は限られていると思うのだけれど、それでもこういった経験のないヨーコにとっては難しい問題だった。
    「とりあえず適当に……」
    「誰か……いるの?」
     びっくう、とヨーコの体が跳ねた。
     慌てて階段を見上げる。そこにいたのは小さい女の子だった。まだ小学校エレメンタリースクールに通ってもいないくらいだろう。
     『能力』を使うか……?
     ヨーコは自問自答した。
     ヨーコの能力は『相手の意識を逸らす』力。
     見付かる前であれば、相手の意識を他に逸らせば見付からずにすむ。
     いや、見付かってからでもなんとかならないでもない。
     十秒程度の長さの記憶であれば、『見つけた』という記憶から意識を逸らせばいい。いわば、記憶から消すのと同じ効果。
     でも、それではあくまで一時凌ぎ。
     この家に留まってぬいぐるみを探し続けるには、それ以外の方法を考えるしかない。
    「いや、別に怪しいモンじゃなくて……なんつーか、あたしは、その……」
    「……ママ?」
    「そうそう、そのマ……マ?」
     誤魔化すために適当に話を合わせようとして……ヨーコの言葉が止まった。
     ママ?
    「やっぱり、ママだ! いい子にしてたらお誕生日には来てくれるって信じてたの! ママ、シンディいい子にしてたでしょ?」
     この子の名前はシンディというらしい。
     しかし、そんなことよりも。
    「ばっ、おま、あたしはまだ……」
     十代だ、と言いかけて、気付いた。
     その女の子の視点が、ヨーコの顔に合っていない事を。
    「お前、もしかして……」
     目が、見えていないのだろうか。
     女の子の目の前で手をひらひらさせてみる。
     その瞳は、なんの反応も見せはしなかった。
    「そう……か」
     見えていないのなら、母親と間違えたのもわかる。
     しかも『誕生日には』ということは、母親とはほとんど会っていないのだろう。
     それならこのまま母親だと思わせておいた方がぬいぐるみを探しやすくなるし、……なによりこの子の悲しむ顔を見ないですむ。
    「私ね、ママとお話したいこといっぱいあるの。ママ、私の部屋に行こ?」
     そう言えば、シンディはパジャマ姿だった。
     目の関係でずっとパジャマでいるのかもしれないけれど、もしかしたら部屋で昼寝をしていた可能性もある。
     だったら、適当に寝かしつけられれば、ゆっくりとぬいぐるみを探せるはず。
     寝かしつけてる間にぬいぐるみが何処にあるのか予想をつけておいて……
     なんて、考える必要もなかった。
    「ママ、ほら。ねこさん!」
     部屋に入るなりシンディがベッドから抱き上げたもの。
     それこそが、目的だった黒猫のぬいぐるみだったのだから。
    「これくれたの、ママだよね? パパは名前がないからわからないって言ってたけど、私すぐにわかったの!」
     こんなに簡単に見付かるなんて。
     しかも、自分からのプレゼントだと思っている。ならば、回収するのも簡単なはず。
     もしかしてこれは神の思し召し?
     ……そんなわけはない。日頃の行いがよくないのは自分が一番知っているし、そもそもこのぬいぐるみの中身を回収する事が神の意思に沿うとは思えない。
    「ほら、ふっかふかで気持ちいいの。ママありがとう、大事にするね!」
     黒猫のぬいぐるみに頬擦りしながら、シンディは満面の笑みを浮かべた。
     幸せそうな、でもやはり視点がこちらには合っていない顔で。
     ぬいぐるみの姿が見えていないシンディにとっては、可愛さとかよりも手触りの方が重要なのだろう。
    「えーと……」
     言い辛い。
     言い辛いけれど、だからといって言わないわけにもいかない。
    「えーとな、シンディ。実はプレゼントを間違えちまったんだ。だから、悪いんだけどそのねこさんは返してくんないかな?」
     一瞬、意味がわからないという表情。
     しかし、その言葉の内容を理解すると同時に、シンディの表情が曇った。
     わかっていたけれど、やはり心が痛む。
    「やだよ、シンディこのねこさんがいい」
    「ごめん、このねこさんはダメなんだ。新しいねこさんととりかえてやるから。な?」
    「ヤ! このねこさんがいい! もう名前だってつけたんだもん! 他のねこさんじゃイヤ!」
     相手はこんな小さな女の子。
     しかも目が見えていないのだ。
     猫のぬいぐるみを奪って逃げるくらいは簡単なもの。
    「やだ……やだ、よぉ。このねこさんがいいの……」
     でも。
     こんな小さな子が、縋るようにして抱いているぬいぐるみを無理矢理奪うなど。ヨーコに出来る事ではなかった。
     ため息を吐く。
    「……ああ、わかった、シンディ。このねこさんでいい」
    「本当!?」
     その途端に満面の笑み。
     全く、敵わない。
    「仕方ないからな」
    「ありがとう! ママ、ありがとう!」
    「その代わり、ちゃんとお昼寝するんだぞ?」
     あとは、シンディが寝ている間に持ち去るしかない。
    「もっとママとお話したいよ」
     この無邪気な笑顔をまた曇らせるのは気が引けるけれど。
    「布団に入ってても話は出来るだろ?」
     その代わりに、それまでの間は出来るだけ楽しい思いをさせてやろう。
    「じゃあ、一緒にお布団に入って!」
    「はいはい」
     そのくらいは仕方ない。
     布団を捲り、ぬいぐるみを抱えたままのシンディを寝かせて、その隣に潜り込む。
     流石に服を脱ぐわけにはいかないので、寝心地は悪かったけれど。
    「嬉しいな、今年のお誕生日はママと一緒だ」
     そう言えば、そんなことを言っていたか。
    「夜になったらパパが帰ってくるから二人でお誕生日するの。ママもしてくれるよね?」
    「なんだ、誕生会に友達は呼ばないのか?」
     嘘はつきたくなくて、話を逸らしたつもりだったのだけれど。
     言ってから後悔した。
     シンディは目が見えないのだ。友達を作る程度のことすら簡単ではないだろう。
    「ほんとは、ジャックくんも呼びたかったんだけど……」
     頬を染めるシンディを見て、ヨーコは目を細めた。
     その表情は、友達を呼べないことに寂しさを感じているとかそういうものではなかったから。
    「どうして呼ばなかったんだ?」
    「だって……恥ずかしかったから」
     この少女にもそういう相手がいたことに、心から安堵していた。
    「そうだよな、恥ずかしいよな」
     頭を撫でてやると、シンディはくすぐったそうに身を捩った。
     こうしていると自分の子供の頃を思い出す。ヨーコにだって子供の頃はあった。
     当たり前だけれど。
    「あたしにも昔は好きな人がいてさ。隣に住んでたずっと年上の男の人なんだけど。好きだ、なんて言えないうちに他の女と結婚して出てっちゃったんだ。あんときゃ泣いたね」
     あの恋が実っていたら、こんな風にはなっていなかったかもしれない。
     考えても仕方のないことだけれど。
    「ママも泣いちゃうの?」
    「そりゃ泣くさ。女の子だもんよ」
     恋に涙して女の子は大きくなるんだ、なんてちょっと考えた。
     いや、アレ以外の恋はしていないから、ほんとのところはわからないのだけれど。
    「そっか。ママもシンディと同じなんだね。ちょっと、安心……した」
     気づけばシンディは目を瞬かせていた。ようやく眠くなってきたらしい。
    「ほら。眠くなったなら、無理しないで寝な」
    「うん……おやすみ、なさい……」
     くぅ、と寝息を立て始めたシンディに、ヨーコは小さくため息を吐く。
     やっと寝てくれた。
     シンディが抱いたままだった黒猫のぬいぐるみを掴みあげる。
     抱えていたシンディの手が僅かに抵抗したけれど……眠って力の抜けた手では、それも短い間だけ。
    「これで任務完了……か」
     全然嬉しくない。
     手にしたぬいぐるみから視線をおろす。
     ベッドの上には、シンディの安心しきった寝顔。
     大切なぬいぐるみを、『ママ』に奪われるなんて欠片も思っていない表情。
    「……でも、このまま置いとくわけにもいかねぇし」
     例えヨーコがこのぬいぐるみを見逃したとしても、すぐに組織の他の誰かが回収に来る。
     そいつが穏便な手段を取るとは限らない。
    「いっそ、中身だけ持ってくとか……」
     中を見るなと言われているけれど、ぬいぐるみをシンディから取り上げずに済ますためにはそれしかない。
     中身を見れば、もしかしたらヨーコは組織に命を狙われたりするかもしれないけれど……それは組織などに関わったヨーコの自業自得だろう。
     でも、問題がもうひとつ。
    「腹を裂かれたぬいぐるみを見て、この子はなんて思うだろ……」
     見て、というのは言葉の綾だけれど。
     でも、ショックなことに変わりは無いだろう。
     目覚めた時にそんなぬいぐるみが枕元にあったら……
    「遅いから様子を見に来たが、どうやら任務は遂行できたらしいな」
     慌てて声の方へと向き直る。
     開いたままの窓を背にしたその男は、何の変哲もないサラリーマンにしか見えなかった。
     どんな場所にいても全く違和感なく、誰にも気にされない程に溶け込んでしまう。
     そんな男だった。
     その男のことを知っているヨーコですら、気にしなかったかもしれない。
     きっと父親が帰ってきたのだ、程度にしか思わなかっただろう。
     この部屋には、ついさっきまでヨーコとシンディ以外の誰も存在していなかったことを知っていなかったら。
    「Mr.スミス……」
     ヨーコの直属の上司である男だった。
     直属の上司といっても、ヨーコなどは沢山いる部下のひとりに過ぎない。いわば、ただの『その他大勢』。
     スミスというのも偽名だろう。ありふれた姿にありふれた名前。
     もっとも目立たず、もっとも自由に動けて、もっとも安全。
     Mr.スミスは、プロの中のプロだった。
    「さっさと戻るぞ。そのぬいぐるみを寄こせ」
     迷いのない足取りで近づいて来る。
     ヨーコにはそれが、今までの悩みを意味のないバカなことだと言われているように見えた。
     だから。
    「……寄るな」
     言ってから後悔した。
     言った言葉をではない。
     長い物に巻かれることを良しと出来ない性格になってしまった、自分自身に。
     もっと、楽に生きられればよかったのに。
    「良く聞こえなかったな。ミスヨーコ。もう一度言ってみろ」
     本当に聞こえなかった訳はない。
     聞かなかったことにしてやる。そう言っているのだ。
     何らかの処罰はあるかもしれないけれど、今ならなかったことにする事も出来る。
    「……寄るな、と言った。このぬいぐるみはこの子のだ」
     でも、ヨーコにそのつもりはなかった。
     それくらいなら最初から言わない。
    「これは間違えて届けられたものだ。その子供には何の権利もない」
     シンディからぬいぐるみを取り上げても、二三日すれば忘れるだろう。
     でも、ここでMr.スミスに反抗すれば、ヨーコに待っているのは上手く行って処罰、悪ければ始末だ。
     シンディが二三日悲しむのと、自分の命。
     比べるまでもない。
     本当なら。
    「権利とかっ、かんけーねーんだよっ!」
     手の動きよりも、銃声の方が速かった。
     そのくらいの早撃ち。
     それでも、その銃弾がMr.スミスに届くことはなかった。
     寸前で弾かれる。まるで、見えない何かにぶつかったように。
    「ふむ。君は元から反抗的だったな。こんなことをしでかした以上は、それなりの覚悟があるのだろうが……君の能力は私には効かんぞ」
     わかっている。
     ヨーコの『対象の意識を逸らす』能力は、相手の攻撃を邪魔し、こちらの攻撃を避けるのを邪魔できる。非常に強力な能力だった。
     この世界に入るまでは。
     近所のガキどもや不良たちには面白いように効いていたその能力も、命の遣り取りを仕事にしている連中にはほとんど効かなかった。
     おそらく、精神力の問題なのだろう。
     殺すか殺されるかという瞬間に、相手から意識を離すような奴がこの世界で生きていられるはずがない。
     町の不良たちの中では顔役にまでなっていたヨーコも、プロの能力者の中では三流にすらなれてはいなかった。
     まして、Mr.スミスのようなプロ中のプロに通用するわけがない。
    「だからって、やんねーわけにいかねー時だってあるんだよっ!」
     ぬいぐるみを抱えているので銃が撃ちにくい。しかし、捨てていくわけにもいかない。
     牽制のために銃を乱射しながら、ヨーコはドアから飛び出た。
     この部屋でやりあえばシンディを巻き込んでしまうかもしれない。
     部屋から飛び出た勢いのまま、ヨーコは廊下の反対側の窓をぶち破る。
     ここは二階。少し高いが、飛び降りられない高さではない。
     石畳に着地。痛む足を無視して走り出す。
     家の裏手の川辺を、とりあえず身を隠せる場所を探しながら走る。
     ちらりと振り向くと、Mr.スミスが窓から降りてくるところだった。
     Mr.スミスの能力は、空中に見えないブロックを作り出すこと。
     こうして高いところに上り降りする時の足場にも、戦闘時の盾にも、敵の行く手を阻む障害にもなる。
     地味だが強力な能力だった。
    「ちくしょう、いいよな、アレっ!」
     ヨーコのような、相手によって全く意味のなくなってしまう能力とは違う。
     常に安定して使える能力。
     銃の扱いについては自分の方が上だと思っているから、尚更くやしい。
    「……ちくしょう、これからどうするか」
     何とかMr.スミスを振り切り、岸に引き上げられた舟の陰に隠れる。
     悔しいが、戦いでは相手が一枚上手だ。
     ブロックでの防御は、ヨーコの銃程度は問題なく阻む。
     足場を使った変則的な動きを追いきれる自信は、はっきり言ってない。
    「やっぱり能力の差だよなぁ」
     子供の頃や不良時代に、ヨーコにやられた奴らも同じ気持ちだったのだろうか。
     いや、そんなことを考えている場合ではない。
     実は、手がないではない。決定的ではないけれど、いくらかくらいは有利になる手が。
     本当はそんなことはしたくないし、そもそもそんなことをしてしまっては本末転倒なのではないか。
     でも、だとしても奪われるのを黙って見ている方が余程本末転倒──
     そこで振り向いたのは、運だったのか野生の勘的なものだったか。
     そちらは安全だと油断していた背後から、ブロックの足場で舟を乗り越えてきたMr.スミスに気付けたのは、まさに奇跡。
     Mr.スミスはプロだった。
     敵を見つけて、銃の間合い内で、射線が通っていれば、その瞬間に撃ってくる。
     躊躇も警告もあるはずがない。
     だからヨーコが相手に気付いたのは、Mr.スミスが引き金を引くほんの一瞬前。
     今足場にしているブロックを蹴って、次のブロックに足をかければ射線が通る、その間際。
     反撃などする余裕もなく、例え出来てもブロックで防がれることがわかりきった、もう出来る事が何も無い瞬間だった。
    「ごめんっ!」
     悩む時間も無い。
     だからそれだけ叫んで、ヨーコは握り締めたままだったぬいぐるみの腹を、思い切り引き裂いた。
    「──────」
     Mr.スミスはプロだった。
     プロとは任務を確実にこなす者の事。
     ぬいぐるみの中を見るな、と言われれば絶対に見ない。
     だから、「腹の裂けたぬいぐるみ」から逸らした意識に、能力を上乗せする事は難しいことではなかった。
     銃を抜き、相手に向け、引き金を引く。
     それだけの時間を稼ぐくらいは、なんとかなった。
    「──────!」
     肩を打ちぬかれたMr.スミスがブロックから足を滑らせ、石畳に叩きつけられる。その様子を、ヨーコはまるでスローモーションのように眺めていた。
     その体が動きを止めるのを確認してから、ようやく息を吐く。
    「……もう、こんなこと二度とやらねぇ」
     まるで一秒を一年のように感じた瞬間だった。
     ぬいぐるみで意識を逸らそうとは思っていたけれど、それでも勝てるという保障などはない。
     実際、なんとか勝てた事に運以外の要素はなかった。
     今になって肝が冷える。
     しかし、いつまでも休んでいる訳にはいかない。
     このままでは、Mr.スミスが目を醒ました瞬間に、ヨーコは死んでいるのだから。
    「そういえば……これ、なんだったんだ?」
     目を覚まさないように気を使いつつ、Mr.スミスを縛り上げてから、ようやくヨーコは事の発端を思い出した。
     黒猫のぬいぐるみの中身。
    「ま、どうせ組織も抜けたんだし……見ちまうか」
     これで組織から狙われることになったのは間違いないだろう。
     だったら、中を見ない意味はない。
     そもそもこのままでは、またこのぬいぐるみを狙って組織の者が来るだろう。
     ヨーコはそれ以上裂けないように注意しつつ、ぬいぐるみの中に指を突っ込んだ。
    「これ……かな?」
     指先に触れた感触は、予想していたような宝石でもクスリ入りのビニールでもない。
     おそらくは一枚の紙切れ。
     普通のものよりも、固くてすべすべした手触りがする。
    「写真……か?」
     犯罪の証拠写真とかだろうか。二重帳簿か、始末の現場写真か。
     のぞき込んだヨーコの目に映ったものは……
    「ぶっ……! なっ、なんだこりゃ!」

    「……よし、大丈夫だな」
     Mr.スミスを縛り上げたロープと猿轡に緩みが無いのを確認する。
     これなら起こしても逃げられはしないだろう。
    「おい。起きな」
     肩を揺する。起きた気配などは全くなかったけれど……
    「わかってんだよ。さっさと目を開けな」
     Mr.スミスの瞳が、用心するようにゆっくりと開いていく。
     カマをかけたのだが、やはり目覚めていたらしい。
     その目が写真を捉え、丸く見開かれたのを確認してヨーコはMr.スミスの首筋に手刀を落とした。
     驚いた表情のまま再び気を失ったMr.スミスを、確かに気を失っているのか念入りに確認する。
     これだけ縛り上げてあれば、別に目を覚ましていても関係ないけれど。
    「それじゃ、ま、忘れて貰うかな」
     それからMr.スミスの額に手を当てて、自分も目を閉じた。
     Mr.スミスの意識を探り、さっき見せた写真から意識を『逸らす』。
     確かな手ごたえ。
     この状況なら、Mr.スミス程の相手にでも効かないわけが無い。
     どうでもいいような雑魚に敗れ、任務に失敗し、無様に縛り上げられ、その上更に──
    「こんなもん見せられちゃあなぁ」
     写真に視線を下ろす。
     そこに写っていたのは組織のボスだった。
     組織を束ね、Mr.スミス程の能力者を幾人も配下にしているボスが──フリフリのドレスを着て、ばっちりポーズを決めている写真。
    「ぷっ……何度見ても笑えるわ」
     こんな写真が人目に触れれば、組織存亡の危機だろう。
     Mr.スミスも、こんな写真は見なかったことにしたいに違いない。
     その写真を封筒に入れようとして、ふともう一度封筒の中身を確認してみる。
    『 じ表
     イヤになったんでやめる。
     ヤな思い出しかないんで、そしきのこととか思いだすことはないと思う。
     でも、あたしになんかあったら、あたしのかわりにいろんな人が今日のことを思いだしてくれるはず。
     おたがい平和にくらしたいもんだ
      かしこ』
    「……我ながら頭悪そうな文章だよな」
     別に頭の良さをウリにしているわけではないのでどうでもいいのだけれど。
     所詮こんなものは形式に過ぎない。
    「でもま、意思は伝わるだろ」
     組織の方から手を出して来なければ、今日見たものは忘れるということ。それから、自分に何かあれば『いろんな人』の意識を逸らさせている能力の効果が切れるという事。
     組織のサイコメトラーがMr.スミスの精神を探れば、どんな処置をされたかわかる。
     そうすれば、脅しにはなるはず。
     もちろん『いろんな人』なんていないのだけれど、組織はそうは思わないだろう。
     これで全て解決するとは思っていないが、手出しを躊躇させる効果くらいにはなるはず。
     あとは……
    「……ママ?」
     家に戻ったヨーコを出迎えたのは、不安げなシンディの声だった。
    「ああ、シンディ。起きてたか」
     当たり前だ。耳元でドンパチやられて目覚めないわけがない。
     きっと眠っている間に出て行ってしまったと思ったのだろう。
     大事に抱いていたはずのぬいぐるみまでなくなっていて、どれだけ不安に駆られていたのだろうか。
    「えっと……すまん。ぬいぐるみ、こんななっちまった」
    「……こんな?」
     そうだった。シンディにはぬいぐるみがどうなっているのか見えていない。
     だったらわざわざ傷付くようなことを教えることはないだろう。
    「大丈夫、なんとかしてやるから。針と糸あるかな?」
    「多分……リビングにあると思う」

    「ほら、これでどうよ」
     指を穴だらけにしながらも、なんとかヨーコは裁縫を終えた。
     さいわい黒猫のぬいぐるみなので、血の跡は目立たない。シンディには見えていないはずだし。
     もちろん、後で洗濯しないといけないだろうけれど。
    「……ねこさん、お腹でこぼこ」
     縫い跡を撫でていたシンディがしょぼんとした顔で言った。
     でも、これがヨーコの精一杯。
    「……まぁ、あれだ。世紀の大手術で一命は取り留めたって奴だ。名誉の負傷だ」
     自分でもよくわからないことを言って誤魔化す。
    「でも……ママ、ありがとう!」
     やっぱり、子供は笑顔でなくちゃいけない。
    「さて、随分時間かかっちまったけど……今何時だ?」
     時計を見上げる。もう午後6時を回っていた。
    「うわ、もうこんな時間かよ。そろそろ──」
     帰ろうか、とヨーコが腰を上げかけた瞬間だった。
    「シンディ、ただいま」
    「パパだ!」
     まずい。時間を取りすぎたらしい。
     いくらシンディと一緒とはいえ、見知らぬ人間が家の中に入れば不審者扱いだろう。
     まして本当に不審者なのだから言い訳のしようもない。
     窓からでも逃げよう、と慌てて立ち上がろうとしたのだけれど。
     シンディが服をしっかりと握って離してくれない。
     その縋りつくような瞳を見て……ヨーコは諦めた。
    「誕生日おめ……あれ、お客さんかい?」
     入ってきたのは、シンディの父親らしい男だった。
     シンディを育てたならそうだろうというくらい、やさしそうな男性。
    「いや、あたしは、その……」
     相手に出来るだけ顔を見られまいと視線を合わせないようにしながら、ヨーコは悩んだ。
     『逸らす』か。
     いや、ダメだ。これだけ一緒に居てはシンディの意識は逸らせない。父親と記憶が違っていて、シンディが嘘をついたなんてことになるのはかわいそうだ。 
    「お客さんじゃないよ。新しいママなの!」
    「そ、そう。新しい……あたっ!?」
     母親と間違えていたのではなかったのか。
     『新しい』……って。
    「えーと、シンディ? 本当のお母さんが帰ってきたと思ってたんじゃ……」
    「死んじゃった人は帰ってこないんだよ。シンディ、そのくらい知ってるもん。だからね、神様に誕生日には新しいママをくださいってお願いしてたの」
     ……ソウデスカ。
    「えーと、よくわからないけど、シンディがお世話になったみたいで」
    「……いえ、お世話というほどの事は」
     脱力してしまったせいで、気を抜いてしまっていた。
     正面から見てしまったその顔は……確か、どこかで。
    「……あれ、もしかして、……隣に住んでたヨーコちゃん?」
    「隣って……え、ケン兄ちゃん!?」
     間違いない。
     もう随分会っていないけれど、見間違えるわけがない。
    「やっぱり。僕が結婚して以来だから……もう八年ぶりくらいなのか」
    「うん……ケン兄ちゃんは変わってないね」
     昔から変わらず、かっこよくて落ち着いた雰囲気。
     父親になったせいか、渋味みたいなのが出てますます魅力的になっていた。
    「ヨーコちゃんはすっかり大人になったね。こんなに綺麗になっちゃって」
    「綺麗なんて……そんな」
     ヤバイ。とんでもなく嬉しい。
     最後に会ったのはまだ小学校(エレメンタリースクール)に通っていた頃だから、当然子供扱いされていた。
     大人として扱ってくれているというだけで、舞い上がってしまうほど嬉しい。
    「これから誕生日のお祝いをするんだけど、二人だけだと寂しいと思っていたんだ。よければ、一緒に祝ってあげてくれないかな?」
    「いや、でも……親子水入らずにお邪魔だろうし」
     八年ぶりに会った昔なじみ、というだけで邪魔をするのは申し訳ない。
     それに、……なんだか恥ずかしい。
    「邪魔じゃないよ。だってママは家族だもん」
    「シンディもこう言っているし。ひさしぶりだから昔の事とか話したいしね。お願い出来ないかな?」
     シンディの期待するような笑顔。
     ケンお兄ちゃんの優しげな笑顔。
     勝てる訳が無い。
    「えっと……じゃあ、お言葉に甘えて」
    「やった! ママ、今日は一緒に寝よ!」
     いや、泊まっていったりはしない……と、思うのだけれど。
     にこにこと微笑むシンディの顔を見て、大切なことを思い出した。
     少し前から知っていたけれど、忘れてしまっていたこと。
     今日は大切な日なのだから、きちんと言ってあげなければいけない。

    「お誕生日、おめでとう」