絶対不可侵領域。
絶対に侵されることのない領域。
私は今、そこの中央にいる。
私の周りにあるいくつもの“壁”。
これを乗り越えられる人は、きっといないだろう。
ここは、絶対不可侵領域なのだから。
*
僕は
ごく平凡な日常を送ってきた中学生だ。
そして恐らくこれからも、ごく平凡な生活を送っていくだろう中学生だ。
因みに学年は3年で、今は冬。
ここまで言えば想像するのは容易だろうが、受験シーズンだ。
まったく、嫌な時期だ。
「緋谷くん!おはよ!」
「紀藤さん…今日は朝からテンションが高いね。」
「う。…珍しいね、緋谷くんがあたしのテンションの高さを指摘するとは…」
確かにそうだ。
僕は紀藤さんのテンションが高くても、特に気にしない性質だ。
悪い意味ではなく。
彼女は
僕の友人だ。(多分)
「それで…なんかあった?」
「いや、特に何かあったわけじゃないんだけど…」
「そっか。……あ、そういえば。」
机に置いてあるカバンから、一冊の本を取り出す。
「これ、読んだよ。続きある?」
「ん、ちょっと待ってね。」
紀藤さんはわざわざ自分の机まで戻ると、同じシリーズの本を持ってきてくれた。
「はい。」
「ありがと。」
すぐには読まず、机にしまう。
さすがに話している最中に読むのは失礼だと思ったからだ。
「で、この前緋谷くんが読んでた本読んだんだけど…緋谷くん読んだ?」
「いや、まだだけど…」
「あのね〜東條 紗智がねぇ…」
「ちょ、ちょっと待て!それネタバレだろ。」
「あ、よくわかったね。」
やっぱりそうだったか。
紀藤さんは天然が入った人で、うっかり口を滑らせたり足を滑らせたりと、いろいろなことをする人だ。
しかし、頭がいい。
成績は常に5位以内という驚異的な数字を叩き出す。
僕はというと、200人中60位くらいだ。未だかつて1桁になったことはない。
「…そういえば、来週は私立の入試だっけ。」
紀藤さんが呟いた。
「そうだね。私立とはいえ…やっぱり勉強したほうがいいだろうし…」
「んー…そだね。」
始業のチャイムが鳴り響く。
その音とともに担任が入ってきた。
席つけよー、と言って教卓の上にファイルを置いた。
また今日が始まる。
*
いくつもの高い“壁”。
それは他人を拒むもの。
他人の侵入を拒むもの。
そして同時に、私と外界を分けるもの。
拒み、
嫌い、
離れ続けた結果だった。
誰かに、必要とされたい。
そう思うのに、“壁”は増える一方だった。
嫌われるのが嫌だったから。
気づけば私は囲われていた。
決して私に触れられない、高い“壁”で。
私が泣いても、その泣き声すら外には聴こえないだろう。
それなら、丁度いい。
私が関われば、きっとその人は不幸になってしまうから。
加害妄想なんかではなく、事実だ。
紛れもない、事実。
私は、囲われていなければならない。
私の心は、囲われていなければならない。
人を、
私を、
壊さないために。
*
「…ふぅ…」
ひとつ、息をついた。
授業終了。
ようやく帰れる。
それだけで少しだけ解放感を覚えた。
荷物をまとめ、カバンを背負う。
起立、礼、さよーなら。
それが済んだら即下校。
これが僕の習慣だった。
「緋谷くん、また明日ね!」
「紀藤さん、明日は土曜日だよ…」
その呟きは、果たして彼女の耳に届いたかどうか。
まあいい。
早く帰るとしよう。
家に帰ってくると、母は早速「宿題は?」と訊いてきた。
「あるよ。」と言って部屋に入る。
某ドラマ風に言うわけでもなく、淡々と。
そういうのには少し息苦しさを覚えるものの、時期が時期だから仕方がないと言い聞かせた。
そうでないと、やってられない。
取り敢えず机に向かう。
教科書類を取り出して、机に広げ、今日の復習。
それが終われば少し休憩。
パソコンへと向かった。
やるのはゲームではなく、好きな作家さんのホームページ巡りだった。
慣れた手つきで表示すると、新刊情報が更新されていた。
どうやら、2月下旬に新刊が出るらしい。
2月下旬といえば、私立の入試の後だ。
…よし、私立受かったら発売日に本屋に向かおう。
これだけで少しテンションがあがるのだから、自分でも単純だと思う。
まあ、いいか。
取り敢えず巡り終わると、インターネットを切断し、メモ帳を開いた。
前に使ったファイルを開き、文字を打ち込んでいく。
それは少しずつ物語となっていく。
こうして物語を綴っていくことが、僕は好きだった。
将来の夢、と言われれば、今の僕は確実にこう答える。
『小説家』と。
*
学校から帰ると、いつもの見慣れた部屋が私を迎えた。
誰もいない、がらんとした部屋。
いつからだったろう。
この部屋を、家を、寂しいと感じなくなったのは。
そして、笑わなくなったのは。
親も兄弟も、私にはいない。
親は交通事故で数年前に死んだ。
それが他人事のように思えてしまうほど、時間が経った。
実際には数年しか経っていなくても、私には数十年にも感じられた。
…決して癒えることのない心の“疵”。
そのおかげで、私はいろいろなものを失った。
両親、友達、感情―――
そんなものは、とうの昔に忘れてしまった。
幼い時に負った“疵”は、治るどころか私を狂わせた。
私という自我を、精神を、蝕んでいった。
自分の体にナイフを向けたことも、一度や二度ではなかった。
だからこそ、私は私自身を囲うしかなかった。
隔離するしか、方法は見つからなかった。
体のどこかが麻痺しているような感覚だった。
学校に行っても、家にいても、その感覚は変わらなかった。
ナゼコノ人ハ笑ッテイルノダロウ
ナゼ私ハ笑エナイノダロウ
ナゼ私ハ……
壊シタイト、望ンデイルノダロウ…?
違う違う違う。
これは私じゃない。
私じゃないんだ。
こんなのは―――
頭を振って、今の考えを消した。
こんなんじゃ駄目だ。
もっと、強く自分を保たないと……
…家にいてもこんなことを考えるばかりだ。
少し出かけよう。
*
「……ふー……」
書いているうちに、充実感がこみ上げてきた。
ふと時計を見ると、もうすぐ4時半になろうとしていた。
「あー……忘れてた。」
今日は紀藤さんと本屋に行く約束があったんだ。
集中してて、時間を気にしてなかった。
「…まだ、時間に間に合うといいけど…」
必要なものをカバンに詰め込んで、家を出た。
4時半まであと8分。
集合場所の駅までは片道約10分。
「…急げばまだ間に合うか……」
自転車に跨り、駅へと急いだ。
「遅い!23秒の遅刻!」
「遅刻のうちに入らないだろ!それ!」
息を切らしてやってきたというのに、1分以内の遅刻も許してくれないとは…
「…まぁ……許してあげなくもないけど。」
嫌な予感がする。
こういう予感と言うのは、悲しいことによく当たるものだ。
「ジュースで許してあげる。」
「やっぱり物かよ……」
「あ、ポカリねー!」
仕方なく、自販機の前に行く。
100円ちょっとで許してくれるのなら、安いものだと考えよう。
もともとそういう約束だったのだから、仕方ない。
『少しでも遅刻したら、相手に何かを奢ること!』
それがルールだった。
お金を入れ、ボタンを押す。
ガコン、という音と共に紀藤さんのご所望の品が出てきた。
ポカリをとってから、自分の分の飲み物も買う。
自転車だったとはいえ、全力で漕いできてかなり疲れた。
そんなことを考えながら、ポカリのボタンを押す。
ガコン、という音。
ポカリをとって、紀藤さんを呼ぶ。
「…買ってきたよ。」
「うむ。ご苦労であった。」
紀藤さんは時代劇が好きなわけではない。
特に意味はないけど、念のために言っておく。
「お代官様、ささ、どうぞお召し上がりください。」
そう言ってポカリを差し出す。
そのポカリには、10円がセロハンテープで付けてある。
勿論、僕がつけたものだ。
「ふふ、お主も悪よのぅ…」
「いえいえ、お代官様ほどでは。」
はっはっはぁ、と笑う。
はたから見たら、妙な二人である。
「…それはさておき、今日はどちらへ?」
キャップをあけ、一口飲んでから紀藤さんが言った。
「…まぁ、何軒か梯子するつもりだけど…」
梯子、とは次々と場所を変えて店をまわることだ。
語源は多分『梯子酒』。
紀藤さんの話では。
本当なのかは微妙なところだ。
少なくとも、僕たちの間ではそれで通っている。
「んー、りょーかい。というか、大丈夫?もうすぐ入試なのに……」
「まぁ、大丈夫だ。私立だし。」
「あー、第一は公立だっけ。」
「そう。でも、押さえておきたいっていうのはあるよな…」
「公立落ちても大丈夫なようにね。」
にやりと笑う。
「それ、冗談に聞こえないし、不吉だからやめてくれ…」
「…実は半分くらい本気だったりして。」
「……やめてくれぇ…」
思わず頭を抱える。
僕が本気で公立高校に落ちたらどうしてくれるんだよ…
「ま、冗談はさておき、早く行かない?じゃないと時間もなくなるし。」
紀藤さんは空になったペットボトルをゴミ箱に放り込み、ペダルに足をかけた。
…というか、飲むの早すぎだろ。
というより、冗談だったのか。さっきの。
「ああ…僕はまだ飲んでるけどね。」
「飲むのおっそいなぁ……あと10秒で飲みきって。」
「いや無理だろ!」
「はい、そう言っている間にも3秒経過ー。」
くそ、本気だったか。
必死で飲むが、そんなに飲めないのはわかりきっていた訳で。
だんだん気持ち悪くなってきた……
「……3、2、1、しゅーりょー!」
「む、無理……」
無理というより、無茶だ。
「……大丈夫?」
「…全然。」
引きつった笑みを浮かべながら言った。
すると、ため息をひとつついて、
「仕方ないなぁ…」
と言った。
「…飲んであげよっか?」
「……いいよ。」
さすがにそれはちょっと。
「遠慮しなくてもいいのに…」
「……要するに、飲み足りないだけだろ。」
「あ、ばれた?」
ははは、と笑う。図星だったか。
「じゃ、あとちょっとだけ待ってあげよう。喜びたまえ。」
「偉そうだな……」
まぁ、待ってくれるというのなら、ゆっくり飲もう。
まだ少し気持ち悪いし。