「国戸村における眼球信仰の起源についての調査結果」



「国戸村における眼球信仰の起源についての調査結果」
大迫英二

 国戸村には、様々な形で眼球信仰が根付いている。しかし、この眼球信仰が「いつ」始まったかというと、その歴史はさほど深くはなかった。
 村に伝わる文書によれば、眼球信仰が現在の形に落ち着いたのは、1930年であった。この年に教会が設立され、今の眼球信仰へ至る。すなわち、1世紀も経過していないのである。そうであるにも関わらず、何故あのような儀式めいた「祭り」がいくつも存在しているのだろうか(祭の概要については、大迫(2009)を参照されたし)。
 教会に残る文献によると、教会が出来る以前から、眼球信仰に対するある種の地盤が存在していたという。

 1865年、八純家次期当主および次期村長であった八純想二氏は、10歳の時に後天性全盲になった。原因については不明だが、それを契機として、見えないはずの目に、この世ならざるものを見るようになったという。  それは所謂、「怪異」や「異形のもの」と呼ばれるものであったというが、そのようなおぞましいものを見る者を、村の住人は受け入れなかった。当然彼は迫害され、八純家の地下牢に囚われることとなった。
 しかし、彼の見る「この世ならざるもの」は、決して害悪をもたらすものばかりではなかった。
 地下牢に囚われているにもかかわらず、村で起きた出来事を全て言い当て、また今後起こるであろう出来事を予知して見せた。その全てがことごとく当たり、村の者は皆彼を恐れ、崇め讃えた。
 村の者は彼を地下牢に押し込めたことを謝罪し、牢屋から出るよう勧めたが、彼は「全てが見える私にとっては、どこに居ようと同じこと。それなら私は地下にいよう」と言って地下牢にとどまったという。
 その後、次男の泰(ゆたか)氏が施政者として村長に就任し、村の将来に関わる問題等は長男の想二氏に判断を仰ぐ形となった。
 以来、村長の家系の長子は、未来を見通すために眼球を抉るという習わしである。

 こうした歴史によって、眼球信仰は興っていった。国戸村のような小さく閉鎖的な村社会では、想二氏のような存在は神格化されてもおかしくはないだろう。
 しかし、まだ疑問は残っている。
 第一に、この村で実際に伝わっている話と史実の間には、若干のズレがあるという点である。上述の通り、史実によると想二氏が後天性全盲になったのは10歳である。しかし現在この村では、全盲となったのは20歳と伝わっている。このズレは何を意味するのか。
 第二に、想二氏が神格化され、眼球信仰が興ったのであれば、何故65年も後の、1930年に教会が設立されたのだろうか。記録によれば、想二氏が逝去したのは1895年とされているため、これも記録と一致しない。  この空白の65年間に何があったのだろうか。あるいは、1930年に何かがあったのだろうか。当時を直接知る者はすでに亡くなっているが、ある家に1930年の当時を記した日記が残されていた。
 その日記には、「眼球こそに真実は宿る」、「見えざる目すらも世界を見る」、「彼らを讃えるべきだ」、そう言い出した男がいたと書かれていた。それが教会の創始者であり、村長を陰ながら支える事実上のナンバー2の、十叶(とがの)という男であったという。
 つまり、十叶という男がいなければ、現在の眼球信仰はなかったのではないかと考えられる。しかし、信仰の源流を作った人物であるにもかかわらず、教会の記録には創始者の出自などはほとんど書かれておらず、謎が多い人物である。日記によれば、十叶は非常に信心深く、所謂オカルトを好む人物であったと書かれていた。
 空白の65年間、十叶という人物、これらに関する資料が教会の書庫に残されていないということに、筆者は疑問を感じずにはいられない。村の中心とも言える機関が、それらの記録を持っていないというのは、本来あり得ないことだと言える。すなわち、これらの事実は教会側にとって、何らかの不都合をはらんでいるのではないだろうか。
 今後は教会自体に対しても調査する必要があると考える。