彼女は何も言わずに、目の前に立つ男を見ていた。
その目には、何の感情も宿されてはいない。
「…君もなかなか、強情だね」
男が言う。その顔には笑みが湛えられている。
「あれからどれだけの時間が経ったと思う? 3日だよ。そろそろ限界だと思うんだけどね」
唇を歪めながら言う。
それでも彼女は黙ったまま、男を見ていた。
「君はさ、僕からは逃げられないんだよ…」
一歩、男が彼女に近付く。そして愛おしそうに、こう呟いた。
「こんなにも、君を愛しているのに…君はわかってくれないんだね」
その呟きはどこか寂しそうで、しかし確実に男の狂気を表していた。
「だから僕は仕方なく…君をここまで連れてきたのに」
廃工場の、第三倉庫。
彼女はその中で、もう3日も監禁されていたのだった。
「…ひとつ、聞きたいことがある」
彼女はここに来て初めて、言葉を発した。
「なんだい?」
「貴方は私を愛していると、そう言った」
「ああ、言ったよ」
「それならば…貴方は私に好かれたいのか、それとも嫌われたいのか…どちらなんだ?」
あくまで淡々とした口調で、彼女は問うた。
この3日間、彼女は食事も与えられ、暴行を受けたということもない。
だが、人を監禁するという行為自体許されないことであるということは、男もわかっている筈だった。
そうすることによって、彼女が男を嫌ったとしても、おかしくはない状況なのに。
それならば何故このようなことをするのかと、彼女はわからずにいたのだ。
「…答えるのは難しいね。何せ、その両方であり、両方ではないんだから」
「……どういう意味だ?」
「簡単に言えば、僕は君に想われたいんだよ。そのためには、手段は選ばない」
男は微笑みながらそう言った。
「…わからない、かな」
「わからんな」
「…人は、人を愛することができる。同時に、憎むこともできる。…人の心というのは面白いものでね、愛よりも憎しみの方が強いんだよ」
「つまり、貴方は私に憎まれたいのか?」
「…だから、言ってるだろう? 僕は君に想われたいんだよ。…それがどんな形でも、構わない」
男は笑った。
「たとえ憎まれようと、私が貴方を想っていることには変わりはない、と?」
「そういうことさ。憎まれて、想われて、それで愛する人に殺されるのなら、最高じゃないか。君は僕を愛してはくれないらしいからね」
だから僕を憎んでくれないか、と彼女に言った。
しかし。
「…初対面の相手を憎めと言われても、私には出来ない。憎む要素がないからな」
彼女は静かに、それまでと変わらぬ口調で言うのだった。
「監禁されても?」
「ああ」
「縄で縛られてるのに?」
「ああ」
それだけのことをされても、彼女には疑問しかなかった。
何故こんなことをするのか、と。
ふうん、と男が呟く。
なんとなくだが、男にもわかってきたのだろう。
彼女という人物が、どういう思考の持ち主なのか。
「…そっか。それは残念だ」
男の顔から笑顔が消え、困ったような表情が浮かぶ。
そして、ため息をひとつつくと、「それなら、君に酷いことをするしかないよね」と言って、ポケットから1枚の写真を出した。
写真にはどこかの公園の風景と、一人の男性の姿が映されていた。
「この人、知ってるよね?」
「…私の、親友だ」
「……親友、ねえ……」
彼女の言葉に、男は目を細める。
「…今は、親友なんだ」
「何が言いたい」
「君、彼のことが好きなんでしょ?」
「…………!」
僅かに彼女の表情が変わった。
「ほんとみたいだね。どうやら」
写真を見て、つまらなさそうに呟いた。
そして、突然怒りの感情を浮かべ、言い放った。
「気に食わない」
その瞬間、男は写真を2つに裂いた。そして床に棄て、思い切り足で踏みつけた。
何度も何度も、「気に食わない」と呟きながら。
彼女はそんな男の様子を、やはり何の感情もない目で見ていた。
靴跡ですっかり汚れた写真を見ると、男は満足そうに笑みを浮かべて彼女を見た。
「そっか、僕以外に好きな人、いたんだね」
男は言うが、彼女は黙ったままだった。
「ああ、憎いなあ。彼が憎い。僕さ、彼とは一応友達なんだよ」
独り言のように、男は言う。
ポケットから携帯電話を取り出しながら。
「だから多分、僕が呼んだら何かない限り来てくれるよ。彼は優しいからね」
「…何をするつもりだ?」
いくつかのボタンを押しながら男は言う。
「殺す。…彼をね」
「……!」
あまりにあっさりと、さも当然のように。
やがて男は通話ボタンを押した。
「止せ…!」
「どうして?」
子供が大人に問うような、純粋にわからないという表情で、男は問う。
1コール。
2コール。
「大丈夫だよ。君にもわかるように、ここに呼び出して殺すから」
「やめろ……っ!」
3コール。
4コール。
「頼むから…やめてくれ…!」
5コール。
『はい』
ぷつっ。
ツー、ツー、という微かな音を聞き、彼女は安堵した。
「…必死なんだね。妬けるなあ。やっぱり殺しちゃおうか」
「っ!」
「冗談だよ。…今は、殺さないでいてあげる」
今は、と男は言った。
ということは、彼女の行動、言動次第ということなのだろう。
「僕の邪魔をする奴は、誰だろうと許さないから」
たとえ君であろうとね、そう男は言った。
それから、さらに2日が経った。
それでも男は彼女を拘束したまま、倉庫の中にいた。
だが、次第に男は手を上げるようになっていた。
そして彼女が逆らおうとすると、決まって「彼がどうなってもいいのかい?」と言うのだった。
彼女はもう、男に逆らおうとする気力もなくしていた。
「…いつまで、こんなことを続けるつもりだ?」
「君が僕のことしか考えられなくなるまで」
男は笑う。
彼女は、そうか、と言ってまた黙り込んだ。
「…早く外に出たい?」
唐突に、男は彼女に言った。
あまりに唐突で、彼女は咄嗟に言葉が出なかった。
「もし出たいと思ってるなら、そう思ってる間は出してあげない。僕以外のことを考えてるってことだからね」
当然だという言い方だった。
「…貴方のことしか考えてないと言ったら?」
男は彼女を叩いた。パン、という乾いた音が倉庫内に響き、彼女は床に倒れこんだ。
「見え透いた嘘はやめてくれないかな。怒るよ?」
「……ただの例え話だ。本心じゃない」
「そっか、やっぱりまだ足りないんだね。憎むための要素が」
そう言うと、男は彼女の腹部を蹴った。
蹴った足が鳩尾に入り、彼女は一瞬息ができなくなった。
そんな彼女の頭を、男は踵で押さえつけた。
「…彼を殺されたくはないだろう?」
男は頭を押さえつけていた足を、彼女の目前に移動させた。
「それならこの靴を舐め、僕に服従してみなよ」
彼女は動けなかった。まだ呼吸も整っていなかったのだ。
しかし男はそれを拒否と受け取ったらしく、もう一度彼女を蹴った。
「っ……!」
「何? 彼がどうなってもいいと思ってるの? それとも僕には出来ないと思ってる?」
どうやら男は苛々しているようだった。
彼女は小刻みに震え、やがて男の靴に舌を這わせた。
男は唇を歪め、嗤った。
「君ともあろうお人が、こんなことまでするとはね」
くすくすと男は嗤う。
「彼のためなら、なんでもするんだね、君は」
彼女は何も言わない。
「ああ、ほんと…妬けるよね」
ポケットを探る男。
「やっぱり、殺しておこうか」
「…!」
「君も、君がどれだけ無力か知るといい」
携帯電話を取り出し、開く。
「や…やめろ…」
「僕に逆らうのかい?」
彼女は言葉に詰まる。
この数日間の記憶が、彼女にそうさせたのは明らかだった。
その様子を見て男は満足そうな笑みを浮かべた。
「それでいい。君はただ、そこで見ているだけでいいんだよ」
カチカチとボタンを押し、通話ボタンへ手を伸ばす。
その時、彼女は動いた。
「っ!」
「なっ…!」
男の意識が携帯電話へと向かった、その隙を突いて体当たりをしたのだ。
突然のことに、男は思わず携帯電話を落とした。
それを、彼女は体をよじって倉庫の奥へ蹴り飛ばした。
「まったく、君は…」
男が携帯電話を取りに奥へ歩き出す。
その瞬間を狙って、彼女は倉庫の出口へと走り出した。
「…僕が逃がしてあげるとでも思ったのかい?」
あっという間のことだった。
彼女の体は宙に浮き、視界が逆さまになったと思ったら、走り出す前の場所に戻されていた。
痛みは、殆ど感じなかった。
何が起こったのか、わからなかったほどだ。
「僕はね、武道をいろいろとやらされてたんだ。まさか、それがこんなときに役に立つとはね」
投げ飛ばされたのだと彼女が理解したのは、その言葉によってだった。
「…それにしても、いけないね。そんな悪戯したら。お仕置きをしないとね」
「……あ…」
男は彼女を抱え、椅子に座らせた。
「そこで見ているといいよ。…今から起こることを」
椅子に縛り付けられ、猿轡をかませられ、彼女は身動きをとることすら出来なくなった。
そして男は携帯電話を取り、通話ボタンを押した。
もはや、彼女には何も出来なかった。
「……あ、もしもし? 今ちょっといいかい? ……………」
彼が第三倉庫にやってきたのは、それから30分ほど後のことだった。
男は「やあ、よく来たね」などと言って彼を迎え入れた。
「さあ、こっちに来てくれ。いい物を見せてあげよう」
「一体どうしたんだ? すぐに来てくれって言うから急いできたんだけど…」
「いいから、早く」
そんな会話が倉庫の外で交わされる。
そして、彼は倉庫内へと入った。
「ほら、あれだ」
「なっ…!」
彼は驚きを隠せずにいた。
まさか、彼女がここにいるとは夢にも思っていなかったのだろう。
「―――!」
猿轡をかまされたまま、彼女は叫んだ。「逃げろ」と。
しかし、そんな彼女の悲痛な叫びも彼には届かない。
「お前…なんで……!」
「いいことを教えてあげようと思ってね。彼女は君のことが好きなんだそうだ」
その言葉を聞きながら、彼は彼女の許に駆け寄った。
「大丈夫か? 今とってやるから」
彼女の猿轡を外しながら、彼は言った。
「…に、逃げろ!」
「え…?」
がん、という音がした。
倉庫にあった鉄パイプで、男が彼の頭を殴りつけたのだった。
「やめろ!」
彼女は言うが、殴る手は止まらない。
続けて2発、頭を狙って殴る。
そこからはさらに、殴る蹴るの暴行を加えた。
彼の意識は次第に遠のいていき、男が手を止めたときには、彼は血の海の中にいた。
男は彼の遺体をビニール製の袋に入れ、さらにポリ袋の中に入れて倉庫の奥へ持っていった。
彼女は男が遺体を袋に入れる間、ずっと俯いたままだった。
「…彼は、何も悪くなかった…!」
悔しそうに、彼女が呟く。
「彼は僕の計画の邪魔になる存在だった。だから殺した。それだけだよ」
当然のごとく、男は言った。
「…貴方さえ、貴方さえいなければ、彼は死ななかったのに…!」
「そうさ。僕さえいなければ彼は死ななかった」
あろうことか、男は彼女の言葉を聞いて嗤った。
「そして彼が死ぬのを、君は黙って見ていることしかできなかった」
「…っ!」
彼女は何も言えなかった。
どんな状況だったとしても、彼女にとってそれは事実以外の何物でもなかった。
「僕が、君の愛する人を殺めたんだ」
嗤ったまま彼女を見る。
彼女は俯いたまま小刻みに震えていた。先刻のように。
「君は今、どんな感情を抱いているんだい?」
男は彼女の顔に触れ、自分の方へ向かせた。
彼女の目に宿っていたのは、怒りの感情だった。
「…そう、その目だ。それこそ僕が求めたものだ」
唇を歪め、満面の笑みを湛える男。
そこでようやく、男は彼女の拘束を解いたのだった。
「さあ、君のしたいようにするがいいさ。彼を殺した憎き殺人犯はここにいる!」
両手を大きく開き、声高らかに言った。
「もう君は自由だ。お祝いにこれをあげよう」
男が渡したのは折りたたみ式のナイフだった。それを彼女の手に握らせる。
彼女は男を見て、静かに言った。
「そうか。それじゃあ、貴方はここで死ぬがいい」
鮮やかな手つきで、受け取ったナイフを使い男の頚動脈を切った。
迸る鮮血。
大量の返り血。
彼女は顔にかかった血を手の甲で拭い、男の首を切断した。
彼女の手つきに、迷いはなかった。
切った男の生首を見下ろし、彼女は呟く。
「…すべて、貴方の思い通りになってしまったな」
気に食わない、と彼女は男の顔を踏み潰した。