哉井のカラオケ地獄に巻き込まれて、ようやく解放されたときには既に10時近くだった。
それから家に帰り、適当に理由をつけて家を出た。
歩きながら、空を見上げる。
空は雲で埋め尽くされ、月の色もわからない。
それでも。
俺は再び学校へ向かっていた。
お節介だと言われるかもしれないが、幹藤が気になったのだ。
会っていなければいいのだが…
そう祈りつつ、校舎に入った。
校舎の中は静かなもので、以前のように歌が聴こえることもなかった。
やはり、気にしすぎか。
そう思ったのだが、念のために見てみることにする。
できるだけ足音を立てないように、しかし早足で向かう。
何かあってからでは遅い。
走り出したい気持ちを抑えて、早歩きで廊下を移動する。
すると、不意に何か嫌な音が聴こえてきた。
まるで何かを刺すような、そんな音が。
「……っ!」
嫌な予感がして、走る。
足音なんて気にしていられなかった。
頼む、どうか無事でいてくれ。
程なくして、あの教室に着いた。
そして、目に入ったものを見て、俺は絶句した。
あの、都市伝説の彼女が踊っていた。
その奥に、何かが見える。
それが何なのか、俺は知っている。
「…何をしている」
そう言葉を発すると、彼女はゆっくりと振り向き、妖しく笑った。
「久しぶり。…と言っても、数日前に会ったね」
「質問に答えろ。何をしている」
「今は、何も」
これで満足かな、と彼女は微笑む。
まるで本当に何もなかったかのように。
「質問を変える。ここで何をしていた」
俺の問いに答えず、彼女はこちらに歩み寄る。
手から滴る血液も気にせず、足音ひとつ立てずに、俺の前にやってくる。
「とても楽しいことを、していたの」
あどけない少女の笑顔。
そのはじけるような眩しい笑顔に、俺は目を細める。
「あれが、楽しいことなのか」
指は指さずに、視線を送る。彼女はその先にあるものを見ずに、そうだよ、と頷いた。
ぽたぽたと雫が落ちる音がする。
彼女からではなく、暗い教室の奥から。
「あれは、なんだ」
わかりきったことを訊く。
「かつて人だったモノ」
くす、と彼女の笑い声が聴こえる。それは俺に対してのものだったのか、それともアレに対してのものだったのか。
いずれにせよ言えることは、アレは人だったということだ。
そしてもう、人ではないということ。
「あれは、誰だった」
「知らない」
「知らない筈がないだろう。貴女はこの…」
「嘘。あれは、あなたの知っている人」
名前は言おうとしない。
しかし、心当たりがあった。
「幹藤 渡だな」
「あたり」
ふふ、と彼女は笑う。
床に紅い染みができていく。
――俺も今夜行ってみようかな。桐褄が会えたんだから、会えるかもしれねぇし――
そう言って笑う幹藤の姿が浮かび、消えた。
「何故殺した」
思わず詰問口調になる。
彼女は気にせず、くるくると舞い始めた。
そして静かに歌を紡ぐ。
――閉鎖された鳥籠に、迷い込んだ小鳥が一羽
――封鎖された小屋の中、迷い込んだ羊が一頭
普通に思える歌。
しかし彼女の歌はいつも残酷で。
――さてそれは誰だったでしょう? 誰が知っていると言うのでしょう?
冷酷で、残虐な歌ばかりだ。
――でもあなたにはわかる筈
舞いながら歌う少女は、もう人ではない肉塊の許へ。
――小鳥はあなただったのでしょう? 羊はあなただったのでしょう?
そしてかつて手だったであろう、その部分を握る。
――さあ「はい」と言って御覧なさい わたしにも聞こえる声で
握ったその手を引き、少女は。
――「はい」と鳴いて御覧なさい そうしたらちゃんと
肉塊を彼の席に座らせ。
――壊してあげるから
ソレの腹を突いた。
びしゃっ、という嫌な音を立てて、血肉が飛び散る。
「う……っ!」
「大丈夫。彼にはもう、痛覚もないのだから……」
「…貴女は、何がしたい」
「私たちは、貴方が欲しいの」
「俺が?」
教室に充満する死の匂いに、吐き気がする。
「私は、夢の世界の住人になりたかった」
馬鹿げていると笑われてしまうかもしれないけれど、と言ってソレから離れる。
「何日も何週間も何ヶ月も何年も、私は眠り続けた。眠り姫のように」
軽やかな足取りで俺に近づく。
「そして私は夢になり、都市伝説になった」
「どういうことだ」
「人ではなくなってしまったということ」
あっさりと言って微笑む彼女。
それが諦めか、それとも他の何かなのか、俺にはわからなかった。
「ずっと、貴方を探していた」
「何のために」
くるりと後ろを向く。
窓の外では、厚い雲が月を隠していた。
「世界を、変えるために…」
呟くような、小さなその一言を、危うく聞き逃すところだった。
「世界を、変える…?」
「その話は、また今度」
背を向けていた彼女が、振り返る。
彼女の頬には、透明な雫が伝っていた。
…泣いていたのか。
それは、何故?
「私と、世界が変わる様を見ましょう?」
す、と手が差し延べられる。
血に濡れた手。
そちら側に行けば、もう戻れない。
だからこそ。
「俺は、行かない」
「…意地悪」
泣きながら、彼女は言った。
その声は悲しみに沈んだものではなく、僅かに嬉しさの滲んだものだった。
「貴方がいなければ、こんな思いをすることはなかったのに」
紅い手で、彼女は俺の頬に触れる。
温かで、ぬめりを帯びた感触に、思わずびくりと身を震わせる。
「貴女は、一体」
それだけで理解したのか、彼女は少し口の端を持ち上げて笑う。
「私は、
頬に触れる手とは逆の手で、涙を拭う。
「始まりにして終わり。ここにはいるけどいないもの。それが、私」
「俺には、よくわからん」
正直に言った俺に触れていた手が離れる。
「今はそれでいい。じきにわかる日が来る。それに、貴方はもう」
つ、と彼女の長い指が、俺の唇をなぞる。
「都市伝説の、一部だから」
くす、と静かに笑って、彼女は数歩後ろに下がる。
「また、紅い月が咲く夜に」
たん、と床を蹴り、彼女は闇に溶けた。
いつの間にか雲は去り、紅い月が教室を妖しく染め上げる。
そこには幹藤だったモノも、なくなっていた。