帰り道、俺は公園に寄った。
幹藤――だったモノ――の姿が瞼の裏にこびり付いて離れなかった。
こんな顔で帰れば、母に心配をかける。
これ以上母に心配をかけたくはなかった。
あの時も……母は俺の心配をしていた。
本当は自分も辛く、哀しかった筈なのに。
俺が…鬱病にかかってしまったからだ。
…早く、いつも通りに振舞えるようにならなければ。
そう思い、寄り道をした。
俺が学校にいる間に通り雨でも降ったのか、地面は所々濡れ、水溜りができていた。
水溜りの一つを覗き込む。風が吹いていないせいで、まるで鏡のように俺の姿を映していた。
「…酷い顔だ」
血の気の失せた顔に、死んだ瞳。
真っ直ぐ家に帰らなくて正解だった。
水溜りに足を入れる。
ちゃぷ、という音とともに鏡面は揺れ、それが水だということを俺に教える。
ゆらゆらと揺れる水面に、紅い月が映る。
行きには厚い雲が空を覆っていたのに、今ではそれが嘘のように晴れている。
――愚かね。
不意に、何処からかそんな声が聞こえてきた。
ちゃぷん、と水から足を出し、身構える。
――あら、あたしに気づいてもいないようね。
何処だ。
この声は何処から聞こえてきている…
――ほら、ここよ。
ばっ、と後ろを振り返る。
しかしそこには何もない。いつもと変わらぬ風景があるばかりだった。
「わからないの? あたしはここよ」
つう、と後ろから、首に手をかけられる。
両手で、首を絞めるときのように。
しかしその手は力を込めることなく離れていった。
「…殺さないのか」
「今あなたを殺しても、何にもならないでしょ?」
ゆっくりと、振り向く。
そこには、朱の着物を着た少女がいた。
背は俺より10〜20センチほど低く、年齢は、恐らく双子と同じくらいだろう。
ふと足許を見ると、少女はあの水溜りの水面に立っていた。
「まさか、貴女も都市伝説だというのか?」
「察しがいいのね。そう、あたしが『鏡中の移動者』、
「…『鏡中の移動者』……」
これもまた、この街の都市伝説の名だ。
曰く、暗い中で鏡を見ると、朱色の振袖が映るのだとか。
そして振袖の少女と目が合えば、その者は鏡の中に引きずり込まれ、永遠に出られなくなるのだとか。
「…でも、噂通りね」
不意に、二葉が呟いた。
「何の話だ」
「あなたの話よ」
「…俺の?」
そうよ、と言って二葉は睨みつけてきた。
「早く、思い出しなさい。何もかも…そして破滅すればいいわ」
吐き捨てるように言い、二葉は水溜りの中、鏡の中へ戻ろうとする。
「待て。俺は何かを…何を忘れているんだ」
「…いいわ。あなたが思い出せるようにしてあげる」
教えてあげる、ではなく、思い出せるように。
自力で思い出せと言いたかっただけなのか、それとも。
俺だけの力では、思い出せないのか――
「あたしはね、人間なんて大嫌いなのよ。話すだけでも吐き気がする。だからあたしは常に一人だった。母親は事故で死んだし、父親は仕事で遅いんだって言ってたけど、それも怪しいわ。きっと愛人つくって家に通ってたんじゃないかしら」
腹立たしそうに、二葉は言う。
突然己のことを語り出したので、俺は少し混乱した。
「一人だったあたしを、虐める馬鹿もいたわ。あたしはそいつらが憎くて……」
ふっ、と目を伏せて、こう言った。
「鏡の中に逃げたのよ」
おかしな話でしょ? と少女は笑う。
自虐的な、哀しい笑みだった。
「そしてそいつが鏡に映るたびに、あたしは『死ね』と言って鏡の中のそいつの頬を引っかいてやったわ」
「…………」
「そうすると、不思議なことに…鏡の外の、現実の姿にも傷がつくのよ」
少女の表情が、復讐を遂げたものの表情に歪んでいく。
「ねえ、そいつはどうなったと思う?」
「…死んだのか」
「そう! そうなのよ! ノイローゼになって首吊って自殺したの! あははははははははっ!」
狂ったように嗤う少女。
まだ幼さの残るその顔が、醜く歪んでいる。
暫く嗤っていた少女は、やがてぴたりと嗤うのをやめた。
「こうしてあたしは都市伝説になったのよ」
「何故、それを俺に語ったんだ」
「…それが、あなたが思い出すために必要なことだから」
「どういうことだ」
「訊けばなんでも教えてくれると思わないで。あなただってもう、都市伝説なんだから」
そう言うと、二葉は鏡の中へと消えた。
「…俺が、都市伝説……?」
零と同じことを言う。
一体どういうことなんだ。
…わからない。
俺は暫くの間、一人公園で立ち尽くしていた。