「はいはい」
はあ、と小さくため息をつきつつ、藍沙は返事をした。
そして、手に持っていた仮面をつけて、詞を紡ぐ。
「彼の岸の者、此の岸に渡りて我が身に宿り給へ」
「ひっ!?」
目の前が真っ白になり、私は突然のことにそんな間抜けな声を出すことしか出来なかった。
光がおさまるまでに5秒、我に返るまでに5秒、光が藍沙から発されていたのだと気づくのに10秒と、計20秒かかった。
「いったい、なにが…」
そう呟いたのは、多分さらに10秒ほど後だったと思う。
「…私が誰だかわかりますか?」
だから、藍沙がそう言ったのに反応するのにも少しの時間を要した。
「誰…って、あい…」
違う。
この人は、藍沙ではない。
声も体も、何もかも藍沙のものなのに、中身が違うような気がしてならなかった。
「わかりますか」
繰り返し、藍沙が言う。
でも、それは違う。
藍沙ではない。
言葉遣いが、物腰が、雰囲気が違う。
では、一体この人は誰なのか。と問われれば、果たして答えられるのか。
答えられる訳が。
…………
あった。
「…お、お母さん…?」
私がその名を口にすると、藍沙、否、目の前の人物は微笑んだ。
「大きくなりましたね。もう、15歳になるのですか」
母だ。
どこかでそう確信する自分がいた。
「…ですが、私に与えられた時間は大変短く、限られています。ですから、重要なことを先に述べましょう」
「重要な…?」
「…もし進むべき道を見失ってしまったら、この言葉を思い出してください。人を信じ、他者を認め、自身を大切にする。…一族の家訓です。決して忘れないように」
「家訓…」
「そう。我が一族に欠けているものだと、初代御当主様は仰ったそうです。あなたにも一族の血は流れています。だからこそ、伝えなければと思ったのです」
一族という言葉に、私は顔を背けた。
こんな時でさえ、一族の家訓を伝えようとするのかと。
もっとほかに言いたいことがある筈じゃないのかと。
「…ですが、私はこれを、6代目当主として伝えたいわけではありません。あなたの母親として伝えたいのです」
「……え?」
「人を信じ、他者を認め、そして自身を大切にしてあげてください。そうすればきっと、どんなに困ったことが起こっても何とかなるものです。今は意味がわからなくてもかまいません。ただ、覚えていてください」
母親として。
私に伝えようとしてくれた。
それが何より、嬉しかった。
「お母さ…」
「…そろそろ、限界のようです」
「え…」
「もともとこの体は私のものではありません。ですから、魂は簡単に体を離れてしまうのだと、巫女様に聞きました」
そんな、と私は思った。
あまりに短すぎると。
しかし、母はそれでも、笑っていた。
「もう一度、この目であなたの姿を見ることが出来て…本当に、良かった」
「待って! 私…お母さんに、どうしても聞きたいことがあるの」
「なんでしょう」
「…お母さんは、誰に殺されたの…?」
ずっと、知りたかった。
このままでは、事件は「終わって」しまう。
「……もうすぐ、あれから15年が経つのですね。時が経つのは早いものです」
「お母さん!」
「あなたに教えることは出来ません」
はっきりと、母は言ったのだった。
仮面で表情はわからなくても、その言葉に迷いがないことはわかった。
「どうして!」
「教えてしまえば、あなたは私の復讐をしようとするでしょう。ですが、私はそれを望んでいません」
「…なんで、犯人が憎くないの!?」
「………時間ですね。あなたと話が出来て、嬉しかったですよ」
「待って! お願いっ、お願いだからっ…!」
しかし、私は二度と、あの母のあたたかな言葉を聞くことはなかった。
「…お母さんに、お願いされたんだ。一度だけでいいから、君と話をさせてほしいって」
「そう、なんですか」
ロウは頷く。
「『神降ろし』ならぬ、『魂降ろし』ね。本当はいけないと、神主様に言われていたのだけれど」
藍沙は仮面を外してそう言った。
ありがとね、とロウが笑う。そして、
「…何があったのか、訊いてもいい?」
もちろん嫌ならいいんだけど、と言い出しにくそうに言った。
「…お母さんは、殺されたんです。15年前に…」
私はあの日のことを語る。
14歳の誕生日に父から明かされた、壮絶なあの日のことを。
仕事から帰ってきた父は、まず不審に思ったという。
もうとっくに日は暮れているのに、家の中は暗く、まるで誰もいないかのようだったから。
しかし玄関には、確かに妻の靴がある。それで、こいつはどうもおかしいぞ、と思ったらしい。
父は何かあったらいけないと思い、傘を武器に居間へ向かい、驚いた。
妻が首を吊って死んでいた。
あまりのことに、父は呆然としてしまったらしい。私の泣き声で我に返ったのだそうだ。
慌てて救急車を呼んだものの、既に命がないことは父もわかっていたのだろう。私を抱きしめて泣いたそうだ。
母が首を吊ったその近くの机の上に遺書があったことから、自殺と見なされた。
しかし、母の死にはおかしなところがあった。
調査の結果、自殺ではなく、他殺だということが明らかになったのだった。
「そして、数年前…父も、亡くなりました。……殺されたんです」
「こ、殺された…!?」
「…
「駕代島で7人の変死体が見つかった、あの事件のことね」
藍沙の言葉に、私は頷く。
「あの中に…お父さんが?」
「はい」
私がそう言うと、2人は黙ってしまった。
静寂を破ったのは藍沙だった。
「……ひとつ訊くけれど、あなたはお母さんが何故犯人の名を言わなかったのか、わかってる?」
「復讐なんてしてほしくなかったから、じゃないんですか?」
それだけじゃない、と首を振る藍沙。
「あなたを、罪人にはしたくなかったから」
「え…」
「人を信じ、他者を認め、自身を大切に……けれど、憎しみに染まってしまったら、きっと家訓に、いいえ、あなたのお母さんが伝えたかった言葉に背くことになる。それを彼女はわかっていた。だから伝えなかった」
「言葉、に…」
自分が死んでしまっても、それでも伝えたかった言葉。
私は自ら進んで、それに背こうとしていたんだ…
「…今日は、本当に有難うございました」
「いやいや、礼には及ばないよっ!」
「そう。私たちはあなたのお母さんに頼まれただけ」
「実も花もない言い方するなぁ…」
「身も蓋もない、でしょう」
冷静につっこむ藍沙。
やはり、対照的だ。
「それじゃあ、さようなら」
「…もし、道を間違えそうになったら、ここに来て。ここには私も、神主様も、ついでにロウもいるから」
「え、あたしはついでなの?」
「ついでよ。…喝を入れてあげるから」
「……はい」
私は深く一礼して、神社を後にした。
「……あいちゃん」
「そのあだ名はやめてと何度も言った筈」
「んー…じゃあ、あいあいとか!」
「……………………」
「じ、冗談だって! だからシカトしないで!」
「…それで、何?」
「ほんとによかったの? あの子に教えてあげなくて…」
「犯人の名前?」
「そ。藍沙はあの子のお母さん…蓮見さんから聞いてたんでしょ?」
「ええ。けれど…あの子は、乗り越えなければならないから」
「え? 何を?」
「……あの子の本当のお父さんがやったことを」
「…ど、どういうこと?」
「ロウは知らなくていいこと」
「え、え? 何なに?」
「いずれあの子もそれを知るときがくる。それまでは隠しておきましょう」
「だから、どういうことっ?」
「…巫女はなんでもお見通しってこと。あなたも頑張りなさい、ロウ」
「…結局また教えてくれないし……」
「それじゃ、ヒントだけあげる。蓮見さんはね…年収数十億という、大手企業の御子息と政略結婚したの」