「劉は、どうするの?」
私たちは応接室にいた。
考えるのならここで、と杏に言われたからだ。
「実験自体は賛成だ。僕も前から考えていたことだからな。」
「それじゃあ…参加するってこと?」
「……ああ。見てから考えてもいいと言っていたわけだからな。」
「…そっか。」
「君はどうなんだ?片廼 鳳。」
だからフルネームで呼ぶのはやめてほしい。
「私は…」
見てみたい気もする。
だけど、怖かった。
「もし見てみたいのなら、参加した方がいい。君がやめろと言えば杏もわかってくれるだろう。」
「…そう、かな…」
「多分な。」
「じゃあ…参加するよ。」
こうして、私たちは計画に参加することにした。
一日目。
10日間という時間を1日で体験できるというのは妙なもので、しかしそれほど不自然ではなかった。
人がいない。それだけで、過去に遡っていることさえ自然なことに変えてしまう。
それが当然だといわんばかりに、日が沈み、日が昇り、また日が沈む。それが一日のうちに10回も繰り返されるわけだから、だんだん時間の感覚がおかしくなってくる。これは何回目の朝だっけ、と考えなければならない。
だがそれも1週間もすれば慣れてしまった。
今ではそれがこの世界の“正常”になっているほどだ。
「…昭和初期まで巻き戻すって言ってたよね。」
「そうだよ。どうかした?」
「…ううん。なんでもない。」
「ふうん?…まあいいけど。」
『巻き戻し』が始まってから、杏は忙しそうに研究所内を歩き回っている。私にはよくわからないけど、いろいろと調整があるんだろう。
しかし。
そんな慌しい動きが、2週間目には止まってしまった。
「どうしたの?」
機械の前で立ったまま動かない杏に話しかける。
だが、返事はない。
仕方がないので助手のひとりに声をかける。すると、驚くべきことを言った。
「…プログラムに欠陥があったようで、機械がうんともすんとも言わないんです。」
「…うそ……」
両手で口許を押さえる。
私たちは、どうなってしまうのだろう。
いや、私たちだけじゃない。世界の人々は、どうなってしまうのか…
「片廼 鳳、ちょっと来い。」
劉が私を外に連れ出した。
その表情は険しく、とてもいい知らせとは思えないほど、思いつめたものだった。
「…気づいていたか?数時間前から景色が少しも変わっていないことを…」
「え…」
プログラムの欠陥による世界の停止。
「このままだと…僕たちはこの時空に閉じ込められることになる。何か…原因を知らないか?」
私は杏の助手から聞いたことを包み隠さずに話した。
劉はそれを黙って聞いていた。表情は相変わらずだった。
「そうか…やはり、プログラムの方か。」
「わかってたの?」
「一度も動かしたことのないプログラムほど、欠陥は生じやすいと思う。動かさなければわからないこともあるからな。」
「…私たちは、どうなるの?」
「…わからない。だが、今はプログラムが動き出すのを待つしかないだろうな。」
3週間目。
事態は最悪の方向へと進み始めた。
即ち、プログラムの暴走。
もう誰にも止められない―――
「杏!一体どうなっているんだ?!」
「あ、あたしにも何がなんだか…とにかく暴走しだしたの。制御不能な状態だよ。」
「…こうなることを考えていなかったのか?」
「…少しも考えなかったわけじゃない。だけど…ネメシスはこちらからの操作にまったく応じない。こんなことは初めてだ…完全に信号が拒絶されてしまったんだよ…」
絶望的な言葉だった。
制御プログラムさえ、正常に動いていないという証拠。
「…これから、どうなるんだ…」
「わからない。…あたしも全力でネメシスを止める努力はするけど…」
「壊したら、駄目かな。」
私が控えめに提案する。が、思い切り睨まれる。
「馬鹿なことを言うな!そんなことをしたら、誰も助からなくなるかもしれないんだぞ!」
「そうだよ。いくらなんでもそんなことは出来ない!」
「じゃあどうするの?これからどうなるの?」
「あたしが知りたいよ…そんなの…」
杏もまいってるらしく、頭を抱えてしまった。
「…もう少し、様子を見よう。」
実験開始から、1ヶ月が過ぎた。
だが、物事は何一つ好転しなかった。
「…そういえば、何でこんなことをしようと思ったんだ?」
すっかり忘れていた、と言わんばかりだった。
「劉、あんた忘れてたでしょ。」
「君もそれは変わらないんじゃないのか?とにかく話してくれ。暇で仕方がない。」
暇つぶしかよ、と杏は呟いたが、ゆっくりと話し始めた。
「…あまりにも、世界には腐った奴が多すぎたんだよ。犯罪を起こす奴なんていくらでもいる。戦争を起こす奴もいる。そんな世界を、放っておくわけにはいかない。どうせならあたしの理想郷を作ってやろう。それがきっかけかな。」
「…案外単純だな。」
うるさいな、と拗ねたように言う。だがそれが本気でないことはそこにいる誰もが知っている。
「だけど…本当は見てみたかったんだよ。この世界から、人が消えるところが。」
独り言のように、杏が呟いた。
「実際に見て、寒気がしたよ。人がいないだけでこんなに変わるものなのかってね。」
「…確かに、そうかもしれない。正直に言うと、世界が変わって見えた。」
自分以外、誰もいない都市。
想像するのと実際に見るのとではまったく違う。
恐怖にも似た感覚が、体に押し寄せる。
「この実験を始めてから、初めて体験することばかりだよ。人が消えたり、プログラムが暴走したり、周りの風景が止まってしまったり…」
その時だった。
ネメシスと呼ばれる機械が、急に甲高いピピピピピピ、という音を発した。
それはまるで女神の悲鳴のようだった。
「どうした?何があった?!」
「わかりません!突然…未来に進み始めました…」
「なっ…!」
杏が機械の方に走り、機械の操作を試みる。
だが応答はなかったらしく、くそ、という声が聞こえてきた。
「どうしたの?」
「…大変なことになった。驚異的なスピードで、未来に進んでる!」
過去から現在を経由し、未来へ。
あっという間に世界が、景色が変わっていく。
「…ひどい…」
私の口から、そんな言葉が漏れた。
枯渇していく自然。
荒れ果てる大地。
上昇する気温と水位。
暗雲が青かった筈の空を覆いつくす。
目を背けたくなるような惨状。
だけど、このままの生活を送っていけば、いずれこの通りになる。
「駄目だ。反応すらしない。」
悔しげに、杏が言った。
「ちょっと私、外見てくる!」
「やめろ!こんな中で外を歩いたら危険だ!」
ぴし、という不吉な音がした。
窓を開け、顔だけを出して周りを見る。
「地面が……」
地割れだった。
研究所から少し離れたところで、地面が割れていた。
ぴしぴしという音が、鳴り止まない。
地割れは今もなお続いているのだ。そして…
とうとう研究所の周りの大地が、割れた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
一瞬にして視界が闇に染まる。