彼は会社の帰り道を楽しんでいた。
彼にとって、帰り道ほど気楽なものはなかった。
だからこそ彼は、いつもとは違う道を選んで少しだけ寄り道をしてから帰ろうと思っていた。
いつもなら通らないような道を進んでいく。
その感覚は、子供の頃に憧れた、冒険に似たものだった。
しばらく歩いていたが、彼は突然止まり、辺りを見渡した。
「…こんな道、あったかな…」
今までに通ったことのない、それどころか見たこともない道だった。
道沿いに建つ店も、見たことのない店ばかりだった。
なんだろう、と彼は思う。
どこか、全然別の場所に連れてこられたみたいだ、と。
この道にいるのは、彼一人だけだった。
だが彼は戻りはしなかった。
もう少し、先に行ってみたい。
その気持ちだけが、彼の行動力となっていた。
どうにかなるだろう、と彼は考え、まっすぐな道を進んだ。
道沿いにある店は皆、どこか怪しげな雰囲気を醸し出していた。
洋風のつくりの店が並んだ道を歩く。
彼には、店はどれも同じに見えた。
だが、ある一軒の店の前で、彼は足を止め、その店を見た。
看板も無く、この道にあったどの店よりも古びていた。
何故か彼はその店に惹かれて、店へと足を踏み入れた。
入り口のベルが、カランと鳴った。
「…すみませーん。誰かいませんかー?」
しかし店内には誰もいない。
奥の部屋にいて聞こえていないのだろうか。
仕方なく、彼は店内を見ていることにした。
見ていると、どうやらここは雑貨屋のようだった。
食器やタオル、照明器具、蝋燭立て、机、ベッド……という具合に、大きな家具以外は棚に収められ、それらはどれも凝ったつくりだった。
これほど細かいつくりなら、街の方で店を開けば儲かるだろうに、と彼は思う。
が、すぐにその考えを打ち消した。
いや、街の方で開いても、これでは…
彼がそう思ったのは、この店の雰囲気にあった。
店の中は全体的に薄暗いものの、置いてある商品はアンティークだと言っても通るのではないかと思うほどいいものだ。
たった一つ、あることを除けば。
店内に置かれた商品は、どれも深い青色をしていた。
それだけではない。店の壁も、床も、天井も、棚も、扉も、入り口のベルも、照明も、何もかもが深い青色で統一されていた。
この店はいったい何なのだろう。
店主どころか、店員すらいない。
彼は嫌な予感がして、入ってきた扉に手を伸ばした。
「いらっしゃいませ。どうされましたか?」
扉を開ける前に、彼の手は止まった。
勢いよく後ろを振り返る。
そこには店主と思しき人物がいた。
いつの間に、後ろにいたんだ?
そう彼は自問するが、答えは思い浮かばなかった。
気配が、まったく無かった。
扉が開く音も、足音も。物音一つしなかった。
「どうしましたか?顔色があまりよくありませんが…」
店主らしき人物が言う。
その店主が言ったとおり、彼の顔は青ざめていた。
「い、いえ、大丈夫です。ご心配なく。」
「そうですか?それならいいのですが…」
心配そうな表情を浮かべる店主。
「それで、あなたがここの店主でいらっしゃるんですか?」
「ええ、そうですよ。まぁ、この店を開いてから3ヶ月くらいですから、まだ日は浅いですがね。」
にっこりと微笑みながら言った。
その表情を見る限りでは、店主は普通の人間に見えた。
もしかして特殊な仕事についていたのだろうか、と彼は考えた。
それならば物音一つさせずに入ってきてもおかしいとは思わない。
少しだけそれが気になり、彼は思い切って訊いてみた。
「あの…失礼ですが、かつて何か特殊な仕事についていたのですか?先ほどあなたは私の後ろにいたのに、私は全く気づけなかったので…」
「いえ、かつてはしがないサラリーマンでしたよ。きっと偶然でしょう。」
あっさりと店主は言った。
本当に偶然だろうか。
否、そうは思えない。
素人がそんなことをすれば、途中で気づかれてしまうものだ。
なのに、この男はそれをやってのけた。
これは一体どういうことなのだろう…
「それで、何をお求めで?」
「え、あ、いえ、ちょっと立ち寄っただけです。」
「そうですか?私が思うに、あなたは何か悩みがあるのではありませんか?それも恐らく、家族に関するもの…」
「え…………」
そのとおりだった。
彼はもうずっと前から妻や娘のことで悩んでいた。
「奥さんと娘さんの眼の事ですね?」
「……はい。」
店主は完全に見抜いているようだった。
彼の妻と娘の眼は、いつからだったか妙なものを映すようになっていたのだ。
世間で言う、霊や化け物といった類のものだ。
二人とも突然同じ日に視えるようになったという。
それ以来二人とも塞ぎ込んでしまい、死んだような虚ろな目をしていた。
病院に行ったところで信じてもらえるはずもなく、彼は何もできずにいた。
「どうして、わかったんですか?」
彼が店主に問うと、意外な答えが返ってきた。
「勘ですよ。ただの。」
「そんなはずない!勘などで当てられるわけがない!」
「いえ、わかるんですよ。何人も見ていればね。ここにはそういう他では治せないようなものを抱えた人や、その親類縁者がよく来るんですよ。眼であったり耳であったりと、人それぞれではありますが。」
笑いながら店主は告げた。
何故なのだろう。
何故この男は笑っているのだろう。
笑っているのに、眼だけが笑っていない。
どこか冷えた眼差し。
それが彼には恐ろしいものに思えてならなかった。
しかし彼自身にも、何故恐ろしいと思ったのかわからなかった。
ただ恐怖だけがこみ上げる。
そこに理由などない。
「どうでしょう、あなたのその悩み、解決してさしあげましょうか?私にはそれが可能です。」
「そ、それは、本当ですか?!」
「ええ。今までも、そういったことをしてきたのでね。簡単にというわけではありませんが。」
「お願いします!なんでもしますから!」
彼がそう言うと、店主はあからさまに顔をしかめてみせた。
「…あまり簡単に口にしないほうがいいですよ?なんでもだなんて。」
「それだけ私は本気なんです!」
必死の思いで彼は言った。
妻と娘の眼が治るのなら、藁でもいいからすがりたい気分だった。
「…わかりました。やってみましょう。お代はお二人の眼が治った後で受け取りましょう。」
「ありがとうございます!」
深々と頭を下げた。
これでやっと、二人の笑顔が見られる…
そう思うと嬉しくて仕方がなかった。
「それでは奥へどうぞ。あなたにも少しお手伝い願います。」
「はい!」
自分にできることなら、なんでもしよう。
彼はそう思っていた。
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