「…
「…私のことフルネームで呼ぶ癖、やめようよ…で、どうって?」
走りながら、私は訊く。
「癖なのだから、仕方がないだろう。…つまり、杏のことだ。確かに彼女なら今回の事を起こしたとしても妙ではない。正義感あふれる奴だからな。」
私は苦笑する。劉に正義感といわれると、なんとなく変な感じだ。
それに、杏は別に正義感あふれる、というわけではない。人間らしい一面や、冷たい面もある。
「でも、なんでこんなこと…」
「それこそ君はよく知っている筈だろう?あの時の彼女の台詞だ。…『この世は腐ってる』。」
「ああ…」
そうだ。それこそが、杏の動力になってるんだ。
杏は、『腐った』世の中を『リセット』するために、世界から人々を消した。
そんなこと、私はわかっているつもりだったのに。
「…だが、これは…らしくない。」
「え?」
「彼女らしくないんだ。こんなやり方は。」
「どういうこと…?」
「いつもの彼女なら、こんな方法はとらないと言っているんだ。こんな、人の命を何とも思っていないような、地球から人を消すなんて方法は…」
「…確かに、そうだよね…」
この方法は、危険すぎるのだ。
殆どすべての人間を消してしまうのだから、下手をすれば死者が出ることも考えられるだろう。
いくらこの世のためとは言っても、そこまでするだろうか。
否。杏はそんな人間ではない。
それならどうして?
何故杏はこんな方法を選んだのだろう。
他に方法はなかったのだろうか。
そして、気づいた。
何かが違うのだということに。
私は足を止める。
「…片廼 鳳?」
「だから、フルネームで呼ぶのはやめてって。」
どこかがおかしいのではない。
何かが違うのだ。
私の感覚が、そう言っていた。
「…ごめん。行こ。」
「ああ…」
今は、考える時じゃない。
走る時だ。
嫌な予感を打ち消すように、私は全力で走った。
地面からまっすぐ伸びている木。
舗装されていない道。
そしてすぐ傍には海。
山奥と形容しても間違いではないような場所に、杏の研究所はあった。
思えば、ここに来るのは初めてかもしれない。
砂利道を走るのは、慣れていない人には危ないからという理由で、私たちは歩いていた。
数分かかってようやく目的地に着く。そして、建物を見て私は少なからず驚いた。
杏の研究所は、木造だったのだ。
「…本当に、これ研究所なの…?」
「ああ。珍しいだろうが。」
劉は何度も見ているからか、驚いた様子はない。
見た目はログハウスだった。ただ、普通のログハウスよりはひとまわり大きいのではないだろうか。扉にはノッカーがついているが、インターフォンもついている。どちらで呼べばいいのか、迷うところだ。
少し考えてからノッカーに手を伸ばす。が、劉に止められた。理由は言わずに、ただ首を横に振る劉。ノッカーで出たことなど一度もない、ということらしい。
少し残念に思いながらインターフォンを押そうとして、また止められる。
「…あいつが出てくるようにするには、コツがいるんだ。」
そう言ってインターフォンを一定のリズムで押す。
するとログハウスの中からバタバタという音が聞こえてきた。急いでいるのがよくわかる。
がちゃ、と扉が開いた。
「…いらっしゃい。待ちくたびれたよ。」
彼女が、私が止めるべき相手。
私と劉は杏に案内されて応接室にいた。
「…もっと早く来るかと思ってたんだけど…案外冷静なんだね、二人とも。二人で一度合流してから来るとはね。まぁ、賢明な判断と言えるけど。」
「…いくつか、聞きたいことがある。」
「知ってるよ。ちゃっちゃと進めないと、あたしも研究が中断されるわけだからさぁ…」
「わかってる。手短に、だろ?」
「…ご名答。じゃ、話して。」
ゆっくりと頷く劉。
「まず、今回の国・人間の消滅は君の実験のせいなのか?」
「その点については否定しないよ。事実だからね。」
「…次だ。何故、こんなことをしようと思ったんだ?こんな…何が起こるかわからない実験を。」
にやりと笑う杏。こういう表情をするときの杏は、大体何かを隠している。
「それについては後で話すよ。理由は簡単だ、一番時間がかかるから。」
「わかった。では次。消滅した国や人間はどうしたんだ?」
「そう。それがこの実験のすばらしいところだよ。劉、あんたにはわからないでしょ?あたしがどうやって消したのか…」
劉は黙るしかない。杏の言ったとおり、わからないから。
「教えてあげるよ。さっきからあんたは消滅って言ってたけど、それは少し違うんだな。だってあたしは人を消した訳じゃないから。今も生きている筈だよ。」
「消した訳じゃ…ない?」
「そう。この世界とまったく同じ空間に、転送したんだよ。…まぁ、パラレルワールドみたいなものかな。だから転送された人たちは何も知らずに生活してる。ただこのプログラムはまだ完全じゃないから、こっちの世界にいる人間は、向こうにはいないんだよ。つまり、パラレルの連中はあたしたちがいないって探し出す可能性もあるってこと。」
「移された人が、生きているという証拠は?」
「今のところはないけど…もうすぐわかることだよ。アメリカ大統領をついさっきにパラレルに送ったから。あと少ししたらまたこっちに戻ってきてもらう。それで安否はわかるでしょ?」
「…国はどうしたんだ。」
「…海底に沈めただけだよ。それほど難しいことじゃないよ、人をパラレルに移すよりはね。」
なるほど、確かにそれなら消したも同然かもしれない。
それでも凄いと思うけど。
「それから…」
「失礼します。」
がちゃ、と応接室の扉が開いた。白衣の女性が紅茶をのせたトレイを持って入ってきた。
慣れた手つきで私たちの前に紅茶を置いていく。
そんな女性を劉がひそかに睨んでいたのを私は見た。
多分、邪魔をするんじゃない、といったところだろう。
「失礼しました。ごゆっくりどうぞ。」
ぱたん、と閉まる扉。
「失礼するのなら入ってこなければいいんだ…それにゆっくりするつもりもない。」
「ゆっくりしていきなよ。言葉を遮ったのはうちの助手のせいだけど。」
「あの人、助手なの?」
「まぁ、ね。この計画の賛同者と言い換えてもいいけど。あと2人いるけど、今のはあたしの右腕。」
「それより、本題に戻してもいいだろうか。」
「ああ、悪い悪い。どうぞ。」
少しも悪いと思っていないような感じで杏は言った。
「それで…これから何をしようとしている?君のことだからまだ何かしようとしているんだろう?」
「ご明察。鳳はまだ気づいてなかったみたいだけど、その通りだよ。」
そうだったの?
私は劉を見る。…気づいてなかったのか、あんなにあからさまだったのに。という顔をされた。
「ま、鳳は鈍いからね。」
杏にまで苦笑いされてしまった。
「話を始める前に、言っていただろう。『研究が中断される』と。つまりそれは研究がまだ続いているということだ。」
なるほど。ようやくわかった。
「来なければ、こちらから招待しようとも思ってたんだよ。二人はあたしの親友だからね。これからの実験を見る権利がある。」
「それで…何なんだ?その実験は。」
「今からある現象が起こる。ちょっと場所を変えようか。」
杏は立ち上がり、部屋を出て行った。私たちも杏についていく。
「これが、あたしたちの“分身”、『ネメシス』だよ。」
目の前にそびえる巨大な機械を指して、杏はうっとりするように言った。
「ネメシス…ギリシャ神話か。」
「よく知ってるね、その通りだよ。人間の驕りに対する神々の怒りと罰を擬人化した女神。それがネメシスだ。これほど相応しい名はないだろう?」
これには誰も答えなかった。
「それで、どんな現象が起こると?」
「現象名『
この世を…巻き戻す?
「どこまで巻き戻す気だ?」
「昭和初期まで。だけど昭和天皇には会えないよ。これは環境だけを巻き戻すから。」
「巻き戻して…どうするの?」
「あたしたちが、この世をやり直すんだよ。作り直す、と言い換えてもいいかな。」
「やり直す…?」
「そうだよ。今この世界にはあたしたちしかいない。だからこそ出来ることがあるはずでしょ?あたしたちの手でこの世界を作り変えるんだ…すべて終わった時、人々にパラレルから帰ってきてもらう。そして判断してもらうんだよ。今までいたパラレルワールドとこっちと、どっちがいいか。」
「誰が判断するんだ?そんなこと…」
「決まってるでしょ?アメリカ大統領だよ。彼はこちらの勝手も知ってるし、向こうのことも知ってる。もし…彼がパラレル――今までの世界の方がいいと言うのなら、あたしはこの世界を完全に元に戻す。」
それが彼女のやり方。
すべては、大統領の判断に委ねられた。
「これから1年…まぁ、1ヶ月と少しなんだけど、巻き戻してみてからだね。」
「待て。僕たちにも考えさせてほしい。この現象に付き合うのかどうか。」
「…いいよ。あたしもそう言おうとしていたところだし。」