「…うまくいったな」
「いやぁ、桐さんもなかなかやるねぇ」
「だ、大丈夫かな、こんなことして……」
「まあ、バレたら大丈夫ではないだろうな」
平然とそう言う俺に対して、古垣はうあぁ、とうめき声にも似た声を上げた。
…面白いやつだ。
「たとえバレたとしても、お前は『何も知らない』と言えばいい。その為にお前を行かせたんだ」
俺の考えはこうだ。
まず、古垣には「忘れ物をした」と言って校内に侵入してもらい、窓を開けてもらう。そしてそこから俺たちも侵入するという具合だ。もし見つかっても、俺と哉井だけ逃げればいい。俺も哉井も、足はそこそこ速い方だ。
「…取り敢えず、今のところは大丈夫そうだね」
哉井の弾んだ声。どうやらこの状況を楽しんでいるようだ。
「確認したら、すぐに帰るぞ」
「わかってるって! あー、会えるかなぁ『黒衣の少女』っ!」
足取りまで軽い。
「き、桐くんも哉くんも、怖くないの?」
俺の後ろでがたがたと震える古垣に、哉井が笑いかける。
「大丈夫だよ、仁紀さん」
「哉くん……」
「すっごい美人さんらしいから!」
「阿呆か」
ぐっ、と親指を立てる哉井の後頭部を叩く。
なかなかいい音がした。
「酷いなぁ桐さん」
へらへらと笑いながら後頭部をさする。
「それで、どの教室だったの? その娘がいたのは」
くすくすと可笑しそうに笑いながら古垣が訊いてくる。
「確か一番奥の、1組の教室だ。……それと古垣、笑いすぎだ」
「あ、ごめんごめん。息ぴったりだったから、つい」
ついって……
まあ、別にいいのだが。
「あ、ここじゃないか? 1組って」
忌々しい昨日の記憶の舞台、1年1組の教室。
「いやー懐かしいねぇ。去年のこととはいえ、今じゃ滅多に通らないからなー」
能天気な哉井に内心でため息をつきながら、扉に手をかける。
「…行くぞ」
ゆっくりと引き戸を開け、教室に足を踏み入れる。
机と椅子が並ぶ、何の変哲もない教室。そこには異質なものなど何もない。見慣れた、ありふれた光景が広がっているだけだった。
「…誰もいない、か……」
はぁ、と明らかに残念そうな声で言って、ため息をつく哉井。
「仕方ないから童心に帰って黒板に落書きでもして帰ろーぜー」
「あ、賛成ー!」
つまらない、といわんばかりの表情でチョークを手に取る。便乗して古垣までもが黒板に駆け寄った。
俺はというと、呆れて眉間を押さえていた。
「おい、そんなことしている場合じゃ………?」
かつん、とチョークが床に落ちる音がして黒板の方を見遣ると、そこには身じろぎひとつしない哉井の姿があった。
「…哉井?」
「哉くん?」
同じようにチョークを取った古垣はなんともないらしく、不思議そうに哉井を見上げている。
なんだ。
冗談でやっているのか?
それとも――
――夢と現の境は
「……!」
「か、哉くん?!」
あの歌だ。
「黒衣の少女」が歌う歌に違いない。
直感的にそうわかった。
しかし、歌っているのは少女ではなく……
哉井 李一、彼自身だった。
――夢と現に境は有らず 碧いモルフォ蝶は舞い踊る
「も、モルフォ蝶……?」
「…一般に、青緑色の翅を持つ蝶で、美麗種が多いと言われている。俺も本物は見たことがないが」
「く、詳しいね…」
「蝶が嫌いだった俺が、唯一好きだった蝶だからな」
歌はまだまだ終わらない。
まるで終わりを知らないかのように。
――夢と認めて夢になり、現と認めて現となる
以前のような禍々しさはないものの、油断はできない。
もしものときは…古垣にだけは、聴かせないようにしなければ。
――
――そうか、それなら 僕は夢に堕ちよう
――蜜蜂は甘い夢を見る 甘く耽美なその夢は、蜜蜂を闇へと搦め捕る
嫌な予感がした。
これ以上聴いてはならない。
これ以上聴かせてはならない。
そんな気がした。
――そうそれは甘い罠 美しいモルフォ蝶は蜜蜂に囁く
「古垣っ…!」
咄嗟に俺は手を伸ばし、古垣の耳を塞ぐ。
「き、桐くん?」
「聴くな! お前も堕ちるぞ!」
――貴方が夢に堕ちるなら、現の身体は棄てなさい
目は塞げば見えなくなるが、耳は、音は塞いでも聴こえてしまう。
そうわかっていても、塞がなければならない。
たとえそれが、勝手なエゴだと言われようと、聴かせたくはなかった。
――さあ、夢へと堕ちてゆきなさい 屍は私が葬るわ
――そう嗤うモルフォ蝶 蜜蜂は夢へ堕ちゆく
――美しいモルフォ蝶 堕ちた蜜蜂は身体を裂かれる痛みを知らない
「ひっ……!」
「何も、聴くな…!」
ああ、俺は無力だ。
連れて来なければ、哉井も古垣も、こんなことにはならなかったのに。
――碧く輝くモルフォ蝶 蜜蜂は生きながら食される恐怖も知らない
――残された赤黒い染みだけが、蜜蜂の死を悼む
――けれど蝶も蜂も、
「桐、くん…!」
「頼む、もう何も……!」
聴かないでくれ。
見ないでくれ。
歌わないでくれ。
――ほら、モルフォ蝶はいつだって、あなたの傍に
「いや…桐くん、私…!」
「哉井っ! これ以上歌うなっ!」
「ふふ…それは無理な話」
「か、哉くん…?」
歌うのを止めた哉井が、口を開いた。しかし、その声は哉井のものではない。
「その声…『黒衣の少女』だな」
「ご名答」
そう言った途端、哉井は床に倒れ込んだ。
「哉井!」
「哉くん!」
駆け寄り、肩を揺するが返事はない。
「大丈夫。気絶しているだけだから」
哉井に駆け寄った俺たちに、彼女の声が響く。
いつの間にか、背後にあの「黒衣の少女」が立っていた。
「少しの間、彼の身体を使わせてもらったの。だから歌っていたのは彼じゃない」
「貴女が、歌っていたんだな」
「予想通りだった?」
まあな、と肯定すると、しゃがみ込む俺たちに目線を合わせるように、彼女が覗き込んでくる。
「彼は、貴方たちの大切な人?」
「俺の、親友だ」
しっかりと彼女を見据えて言う俺に、彼女は微笑む。
「羨ましい。…そして、妬ましい」
「ね、妬ましい…?」
驚いたような古垣の声。
その声に反応して、彼女は古垣を見る。
「私は、いつもひとりだから」
ほんの少し寂しそうにする彼女。しかしそれも一瞬のこと。すぐにいつもの笑顔に戻る。
「彼に、呪いをかけてあげる」
唇に人差し指を当てて、妖しく笑った。
「今夜のことをすべて忘れてしまう呪い。そして代わりに私には会えなかったという記憶を植えつけてあげる」
「え……」
呪いという禍々しい響きとは裏腹に、それは俺たちを思い遣るかのような内容だった。
どういうことなのかと、思わずまじまじと彼女の横顔を見つめてしまう。
その視線に気づいたのか、彼女はこちらを向いた。
「もしも思い出させたいのなら、この歌を歌えばいい」
ポケットから小さな紙片を取り出して、ふっ、と息を吹きかけると、それを俺の手に握らせた。
そっと、彼女の手が頬に触れる。
「本当は、蒼い月の夜には出られないの。でも、今日は特別」
くす、と笑って彼女は頬から手を離す。
「今度は、紅い月の夜に会いましょう」
床を蹴って、彼女は闇へ溶けた。
残ったのは、静謐な空間だけだった。
「……夢、じゃないよね」
古垣の呟きが聞こえたので、取り敢えず頬をつねってみた。古垣の頬を。
「いたたたた! 桐くん酷い!」
つねられた方の頬に手を当て、涙目になりながら睨む古垣。
「いや、ここはつねるところかと思ってだな…その、つい」
「『つい』って……ふふ」
なんだか可笑しくなって、俺たちは笑った。
一頻り笑ってから、学校を後にした。