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午前3時57分。
燕尾服の男は足音ひとつ立てずに、館内を歩いていた。
何をするわけでもなく、ただひたすら歩くだけの一見無意味なその行動は、彼らが日常的に行っている、いわゆる見回りだった。
「お館様」――呉羽 時重に命じられたからではなく、彼らが自主的に、呉羽に恩を返すために行っている。
ふと、後ろに気配を感じ、燕尾服の男は振り返る。
「白雷」
「…雪那、さん」
ふう、と緊張を解く燕尾服の男――白雷に、メイド服姿の雪那は呆れたようにため息をついた。
「雪那でいいって、いつも言ってるじゃん」
「すみません、まだ慣れなくて」
「別に謝らなくてもいいけど……そろそろ、交代の時間でしょ。いいよ、休んで」
「はい。有難うございます」
それではお願いします、と頭を下げ、白雷は自分の部屋へ戻ろうとした。
「……ねえ、あんたさ」
「…なんでしょう」
雪那に話しかけられ、白雷は足を止める。
「兄弟、いたんだ」
「…ええ。今は、どうしているかわかりませんが」
「そっか。……あたし、一人っ子だったからさ、ちょっと、そういうの羨ましくて」
兄弟がいる奴に言ったら、一人っ子の方がいいって言われるんだけどね、と雪那は苦笑する。
「それでも、血を分けた年の近い人間がいたらなあって、考えちゃうんだ。
もしいたら、あたしも親も、あんな風にはならなかったかもって」
「…そうですね。兄弟がいた方が、楽なのかもしれません」
「自慢かよそれー…」
肩をすくめて笑う雪那に、どうでしょう、と白雷は冗談めかして言った。
「悪かったね、引き止めて。お休み」
「いえ、では後はお願いします」
「ん」
片手を挙げて、雪那は応じる。
白雷はゆっくりと自室へ戻った。
明日起こることに備えるために。
*
「………んー…」
うっすらと目を開けると、見慣れない天井があった。
どこだろう、と寝ぼけた頭で考える。
……そうだ、私は…ゲームに、巻き込まれて………
「…ねむ……」
ふあ、と大きな欠伸をして、ゆっくりと体を起こす。
時計に目を向けると、まだ6時前だった。
「……眠いのも当然だよねぇ…」
もう一度ベッドにもぐりこもうとして、やめる。
何時殺されるかもわからない状況で寝るなんて、それこそ自殺行為だ。
「…うー……」
眠い目をこすりながら、私はかばんの中を覘き見た。
何があっても大丈夫なように、準備だけはしてきた。
私はそれをポケットの中に入れ、かばんを持って部屋から出た。
*
「……………」
気付いたら、朝だった。
結局一睡もできないまま、朝を迎えていた。
殺されるかもしれないという恐怖。
それは俺の昔の……あの出来事を思い出させた。
「……雪野、まだ寝てんだろうな…」
隣の部屋にいるであろう恋人にも、まだ話せていないこと。
いつか話そうと思っていて、何時になっても話せずにいること。
「………………」
静かに目を閉じれば、鮮明に蘇るあの記憶。
嫌でも思い出してしまう、あの日のことだ。
+
『…はぁ…はぁ…はぁ……』
息を切らしながら、俺はひたすら走っていた。
スピードを落とさないようにしながら後ろを振り返る。
視界の端に映る、黒い影。まだ、ついてきている。
『…っ…しつこいっ!』
俺はさらに速度を上げる。呼吸が乱れるのにも構わずに。
脚が、肺が、意識が、悲鳴を上げる。
「もう走れない」と。
『……くそっ!』
なんで俺がこんな目に――こんな奴らに追われなきゃいけないんだ!
『畜生…っ!』
こんな……こんな理不尽な鬼ごっこがあっていいものか…っ!
『畜生ォォォォォ!』
叫びながら、走る、走る。
捕まる。そんなことはわかってる。
それでも俺は走り続けなければならないんだ。
少しでも長く……
あと、少しの辛抱だ。
あと………
『……捕まえたぞ、
肩を、掴まれた。
俺を追いかけてきていた、黒服の男の一人に。
あまりの疲労で立っていられなくなり、俺はその場に座り込んだ。
『………なんで…俺なんだ……』
『君に質問する権利はない。そして私はそれに答える義務も義理もない』
黒服の男は冷たく言い放った。
『君には、なんの権利もない』
『…そうかよ…………連れてけよ』
『言われずともそうするつもりだ。そのために我々は君を追いかけていたのだからな』
いくつもの黒い影が俺の前に立ちはだかる。
……………
……くそっ!
母さん………
あんただけは……
許 さ な い
+
あれも、地獄のような鬼ごっこだった。
今回と違うところがあるとすれば、それは命がかかっているかどうかだろう。
枕元に置きっぱなしにしていた眼鏡をかけ、部屋を出た。
なんだか、胸騒ぎがした。
*
広間に入ると、雪那と煉唐の二人がいた。
「あ……お、おはようございます」
「おはようございます、雪野様。それでは、あたしはこれで」
そう言うと雪那はそそくさとどこかへ行ってしまった。
「…あの、私、何かしましたか…?」
「ああ、そうじゃねぇよ。雪那はさっきまで館内の見回りしてて、これから休みに入るだけだ。
別にあんたが気にすることじゃないだろ」
そう言って煉唐は、こんな言葉遣いしてたらまた白雷に怒られちまうな、と肩をすくめて見せた。
「ま、今日すべてに片がつくんだ。純粋な被害者はもう少し休んでてもいいと思うけどな」
「え、あの、純粋な被害者って…?」
広間を出て行こうとする煉唐に、私は問う。
「ここには、悪意や殺意を持った被害者もいるってこった」
じゃあな、と片手を挙げて、煉唐は広間を出て行った。
私は一人、広間に取り残された。