*
まだ誰も気づいてはいない。
やるのなら…今しかない。
今ならマスコミも面白おかしく騒ぎ立ててくれるだろう。
それが私の隠れ蓑になる。
あの人には、もうすぐ気づかれてしまうかもしれない。
だからこそ…今やらなければならない。
気づかれてしまう前に。
*
翌日、緋谷くんはまた明日、という昨日の言葉通り学校に登校してきた。
当たり前のことだけど、碧くんの席には誰も座っていない。
「…お、おはよ。緋谷くん。」
「…おはよう。昨日はごめん。どうしても外せない用事が入ってしまって…」
「……待って。…放課後に話そう?今じゃ誰に聞かれるかわかんないし。」
「わかった。それじゃあお互いいつも通りに振舞うとしよう。」
「うん……」
「それで…昨日話そうとしていたことは?」
「…緋谷くん。あなたが…殺したの?碧くんと、碧くんのお母さんを……」
「……根拠は昨日の小説、ってとこか?」
「…そうだよ。…認めるの?」
そう訊くと、緋谷くんは唇を歪めて、言った。
「…残念だな。その答えじゃ不合格だよ。」
*
今日、私はもう一人の人物を殺害する。
今までに私が殺した、碧 空尭とその母、そして私の叔父。
彼らの後に殺すに相応しい人物を用意した。
その人物の名は―――
緋谷 隆志。
*
「紀藤さんなら、答えを導き出せると思ったんだが…見込み違いだったようだな。」
「…悪かったね。」
「いいよ。答えあわせといこうか。」
そう言って、緋谷くんは目を細めた。
初めて見る、彼の悲しそうな笑み。
見ている者の不安を誘う笑顔。
そして…狂人の笑顔。
それらが複雑に入り混じったものだった。
「…僕が死んだ後にね。」
*
とうとうその時が来た。
誰と話をしているのだろうと思ったら、例の名前を思い出せない人物だった。
今は思い出せる。紀藤 琉惟だ。
それでも私は実行する。
彼女はもうすぐ、解を手に入れる人物だ。
それなら…
今殺してしまっても、問題は無い。
私は躊躇うことなく、彼を刺した。
これで私の物語は終幕だ。
*
「なっ……!」
あたしは目の前で繰り広げられた出来事が、理解できなかった。
緋谷くんが「僕が死んだ後に」と言った直後、あの転校生の簗瀬 紺が現れ、緋谷くんを刺した。
何度も何度も、刺した。
血が服に付こうが構わないと言わんばかりに、刺した。
銀色のナイフが真っ赤になるほど、刺した。
「や…やめて!」
「……もう死んでるよ。悪いけど。」
「!」
簗瀬さんは淡々と言った。
落ちていたロングコートを羽織り、「行こう」と彼女は言う。
「どこに…行くの?」
「……緋谷 隆志の家だよ。」
緋谷くんの家は学校からそう離れていない。
だから家に行くのにはそれほど時間はかからなかった。
家に行く間、あたしも簗瀬さんも一言も喋ろうとしなかった。
話すという行為など不必要だと、あたしも簗瀬さんもわかっていたから。
「…着いた。悪いけど母親の方は頼んでいい?」
「……わかった。」
あたし自身、うまく喋れるかわからなかった。
さっきの光景が瞼の裏に焼きついて離れない。
それを振り払うように、あたしはインターフォンを押す。
なんとか2階の緋谷くんの部屋にあがらせてもらえた。
簗瀬さんが真っ先に向かったのは、緋谷くんのパソコンの前だった。
「…見るの?」
「見るよ。本人も、私に見られることを知っているから。」
「…どういうこと…?」
「もうすぐわかる。」
幸いパスワードの類は無く、あっさりと起動した。
簗瀬さんが制服のポケットから何か手紙のようなものを取り出した。
「…これ、読めばわかると思うよ。」
「え…?」
突然渡されて、困惑する。
何でこのタイミング?とか思ったりしたけど、まずは読んでみることにした。
そして気づく。この文章は……
「緋谷くんの…小説…」
「そう。それが私と緋谷 隆志の秘密なの。」
「え?」
「…ちゃんと読んで。そうしたら、理解することは容易だから…」
あたしはこの文章をもう一度読んだ。
今度はちらっとではなく、しっかりと。
『絶対不可侵領域。
絶対に侵されることのない領域。
私は今、そこの中央にいる。
私の周りにあるいくつもの“壁”。
これを乗り越えられる人は、きっといないだろう。
ここは、絶対不可侵領域なのだから。
いくつもの高い“壁”。
それは他人を拒むもの。
他人の侵入を拒むもの。
そして同時に、私と外界を分けるもの。
拒み、
嫌い、
離れ続けた結果だった。
誰かに、必要とされたい。
そう思うのに、“壁”は増える一方だった。
嫌われるのが嫌だったから。
気づけば私は囲われていた。
決して私に触れられない、高い“壁”で。
私が泣いても、その泣き声すら外には聴こえないだろう。
それなら、丁度いい。
私が関われば、きっとその人は不幸になってしまうから。
加害妄想なんかではなく、事実だ。
紛れもない、事実。
私は、囲われていなければならない。
私の心は、囲われていなければならない。
人を、
私を、
壊さないために。
…………』
「これは…何?」
「それが、私の“物語”なんだ。今から説明する。」
簗瀬さんは言った。
簗瀬さんの両親が事故で亡くなったことから始まったという。
簗瀬さんの父親が人殺しだったということを、簗瀬さんは知っていた。
そして父の弟である叔父も、父が人殺しだということを知っていた。
叔父は、簗瀬さんがそのことを知っているとは思わなかった。
だからこそ、叔父は簗瀬さんの家に来た。
「…父さんはそこそこ…叔父に比べればお金持ちだったから、叔父はちょくちょく来るようになったの。」
金を貰いに。
そしてとうとう、簗瀬さんは耐えられなくなり、こっちに引っ越してきた。
だが叔父はすぐに引っ越し先を割り出し、簗瀬さんの家を訪ねてきた。
だからといってまたすぐに引っ越すわけにもいかなかった。
そんなことをしたところで、叔父は引っ越し先を割り出し、また訪ねてくるに違いない。
そう考えていたからだ。
「そんな時…緋谷 隆志が話しかけてきたの。悩みがあるなら、僕に言ってみてくれ、って。」
「それで…話したの?」
「うん。引っ越したばっかりで、そういうこと話せる人とかいなかったから…」
「その後は?」
「…緋谷 隆志は、脚本を作るって言ったの。小説と脚本は似ているから、丁度いいって。」
「…それが、さっきの小説?」
「うん…それを私に見せて、『君がもしこの舞台にあがるのなら、僕はその舞台のための脚本を書く』って。だから…緋谷 隆志を巻き込むつもりは、無かったんだよ。」
でも、驚いた。と簗瀬さんは言う。
「彼が書いた小説を、一度目を通しただけだった。それなのに…怖くなったんだ。」
「…怖くなった…?」
「そう。自分の思考と、あまりにも似すぎていて。」
「え……?」
「私が語ったのは、今紀藤さんに話した程度のこと。けど、彼はまるで私の思考を読んだとしか思えないような、そんな小説を書いた。」
「そう、なんだ…」
「……と、今までは思っていた。」
「え?」
違うの?
「もしかしたら、私が彼の小説に同調していたのかもしれない。今考えると、何故碧 空尭を殺したのかわからないんだ。」
「わ、わからないって…」
「だから、こう思ったんだ。…私の思考は、彼の小説に置き換えられたんじゃないかって。そんな気がするんだよ。」
思考が、置き換えられる…
わかったような、わからないような、微妙な心境だった。
「…そっか……でも、緋谷くんは、シナリオを書いてただけだったんだ…」
安心した。緋谷くんは人殺しじゃなかったんだ。
「だけど…計画したのは変わらない。そうなれば彼もまた犯罪者になっていたかもしれないのに…引き受けたんだよ。」
「……だから、緋谷くんは物語の終わりに…自分を?」
「…私には、辛かった…最期まで協力してくれた人を殺すのは…でも、もう終わりにしなければならない、そう思ったから…」
「…警察に、行こう?それで終わりにしようよ。」
「それは…できない。今更、彼の物語を汚すわけにはいかない。」
「そんなこと関係ないよ!きっと緋谷くんも―――」
熱い。
下腹部が…熱を持ったように熱い。
ばっとその熱を持った部分を見る。
そこにはあの血でぬれたナイフがあった。
そしてみるみるあたしの血で赤く染められる。
「ど…して……」
「言ったでしょ?もう、終わりにしなければならないって…だから…私の死で、すべてを終わらせる。」
「そんな…の…」
緋谷くんも望んでないよ。そう言いたかった。
でも、あたしの体がそれを許さなかった。
もう限界みたいだった。
視界が、かすんでいく……
うすれていく意識の中で、あたしは血が飛び散るような音を聞いた。